2020年4月30日(木) イエス・キリストについての証言(1ヨハネ5:6-12)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
前回学んだ個所に「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰だ」という、大変意味深い言葉が出てきました。確かに信じるものがある、ということほど、力強いことはありません。何も信じるものがない人は、どれほど不安なことでしょうか。
「いや、何も信じるものがなくても、不安なんかない」という人は、おそらく、そう思う自分自身を信じているのだと思います。本当に何も信じるものがなければ、一歩前に進む事すらできないでしょう。あるいは、考えることをストップさせているか、いい意味での諦めがある人なのかもしれません。
聖書が描く理想の人は、もちろん、自分自身を信じる人でもなければ、何も考えない人でもありません。あるいは悟りきったようにすべてを諦める人でもありません。そうではなく、神の言葉を信じる信仰によって生きる人です。とりわけ、救い主イエス・キリストをお遣わし下さった神の愛を信じて生きる人です。
もちろん、信じるといっても、何もかも鵜呑みに信じるということではありません。しかしまた、この目で確かめなければ、何も信用しないというのとも違います。
きょう取り上げる個所には、信仰とはどういうものであるのかが記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 5章6節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、”霊”はこのことを証しする方です。”霊”は真理だからです。証しするのは三者で、”霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
キリスト教にとって、ガリラヤを本拠地に活動された「イエス」という人物が何者なのか、ということは、中心的な問題です。イエス・キリストご自身、あるとき、弟子たちにこうお尋ねになりました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ8:27,29)
この問いに対して、人々の考えが紹介され、弟子たち自身の考えが表明されました。人々は殺された洗礼者ヨハネの再来だといい、あるいは預言者の一人だといったり、旧約聖書に描かれた預言者エリヤだという者もいました。弟子たちは、というと、「あなたこそメシア、生ける神の子だ」とその考えを述べます。
人々の思いも、弟子たちの思いも、人間的に見れば、中身こそ違っても、結局は同じかもしれません。所詮、自分たちの考えたことにすぎません。一方をただの意見と言い、他方を「信仰」と呼ぶとしたら、どこに違いがあるのでしょうか。
マタイによる福音書の記事では、「あなたこそメシアだ」と答えたペトロの言葉をとらえて、イエス・キリストはこうおっしゃいました。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)。
神ご自身の啓示に対する応答こそ、信仰の本質ということができるでしょう。
きょう取り上げたヨハネの手紙の個所からずいぶん離れた話に聞こえるかもしれませんが、先ほどお読みした聖書には、何故、イエスを神の子キリストと信じる信仰が確かなものであるのか、そのことが記されています。
前回、取り上げた個所をもう一度振り返ってみたいのですが、その一番最後の言葉は、「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」と結ばれていました。しかし、「イエスがメシアである」「イエスが神の子である」という信仰そのものが、単なる人間の思い込みであるとするなら、そのような信仰は何の役にも立ちません。
そこで、ヨハネはその信仰が正しいことを証言するものが三つあると述べます。それは、「霊と水と血」であるとヨハネは述べます。
ここでいう「霊」とは、神の霊、聖霊のことです。それは「真理の霊」とも呼ばれ、真理を明らかにしてくださいます(ヨハネ14:17, 15:26, 16:13)。つまり、真理の霊が証言してくださるので、確かだというのです。
証言というのは、そもそも、信ぴょう性に関わる事柄です。例えば、裁判では、目撃者の証言は重要な役割を果たします。人間の証言でさえ重要な役割を果たすのだとすれば、神ご自身の証言は遥かに優っています。もし、人がこの神の証言を受け入れないとすれば、それは、神を偽り者だとしてしまうに等しいとヨハネは述べます。もし、この世の裁判官が、真実の証言を退けて、証言者を嘘つき呼ばわりしたとしたら、それは大変なことです。
ところで、この個所で難しいのは、聖霊とならんで、「水と血」が証をするものだと述べている点です。「水と血」という言葉によってヨハネは何が言いたかったのでしょうか。
ヨハネによる福音書に慣れ親しんでいる人は、すぐにヨハネ福音書19章34節に記されている出来事を思い浮かべるかもしれません。そこには十字架の上で死なれたイエス・キリストの脇腹を兵士が槍で突くと、「血と水」とが流れ出たことが記されています。しかし、ヨハネの手紙が語っている順番は「血と水」ではなく、「水と血」です。しかも、イエス・キリストは水だけではなく、水と血によって来られたお方である、と表現しています。
確かに、兵士がイエス・キリストの脇腹をついた時に流れ出た「血と水」は、キリストの死が確かなものであったことを証言していますが、ヨハネの手紙が言っている「水と血」とは、それとは別のものです。
「水」はイエス・キリストがヨルダン川で洗礼を受けられて、公の生涯に入られたことを指しているとすると、「水を通って来られた」という表現とも合致します。
そうであるとすると、「血」が指すものは、キリストの地上での生涯の終わりに十字架の上で流された「血」であると考えるのは、自然でしょう。公の生涯のはじめの洗礼の水と生涯の終わりに流された血が、イエスが神の子キリストであることを証言しているということです。
福音書に記されたイエス・キリストの生涯、洗礼に始まり十字架の死に至るイエス・キリストの全生涯が、イエスこそがメシア、イエスこそが神の子であることを雄弁に語っています。その証言を受け入れ、真理の霊である聖霊の証言を受け入れる者こそ、世に勝利し、永遠の命にあずかる者なのです。