2020年4月16日(木) 完全な愛と救いの確信(1ヨハネ4:17-21)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
死に対する恐れ、というのはどこから来るのだろうか、と思うことがあります。もちろん、死に対する恐怖心というのは、人間だけが持っているものではありません。動物にもみられます。それは、死そのものへの恐れというよりは、それに先立つ肉体的な痛みや苦しみに対する恐れであるかもしれません。あるいは、生きることへの本能的な願いから来るものであるかもしれません。
しかし、人間には、それ以外にも、死に対する人間特有の恐れがあるように思います。それは、未知なのものに対する恐怖心と言っても良いかもしれません。死ほど人間にとって未知の世界はありません。誰もが一度は経験することでありながら、経験者の話を聞くことができないという意味で、死ほど未知なことはありません。この死がもつ不可解さが、人間に恐れを抱かせているのかもしれません。
しかし、それ以外にも、人間が死を恐れる大きな理由があります。それは、宗教的な答えから来るものです。人間はだれしも良心の呵責を感じることがあります。その場合、良心の呵責を感じるような悪に対して、どのような裁きがあるのか、と問うのが宗教的な問いです。そして、たとえそのような悪が一生誰にもバレないとしても、死後の世界では裁きをまぬかれないとするのが宗教的答えです。この宗教的な答えを信じる人にとっては、死は恐ろしいものと受け止められています。もちろん、それは人間が生み出した空想にすぎないと言ってしまえばそれまでです。
しかし、そのような良心の呵責にさいなまされ、死を恐れているという方がおられるなら、今日の個所ほど、慰めと励ましに満ちた個所はありません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 4章17節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
ヨハネの手紙には「愛」という言葉がたくさん出てきます。この手紙を書いたヨハネにとって、神の救いの業と神の愛とは、切り離して考えることができません。そればかりか、救いを信じて生きる者にとっても、愛は不可欠な要素として描かれています。
今までこの手紙の中で、ヨハネは愛について繰り返し語ってきました。
ヨハネは、まず、神の愛がわたしたちの愛に先行しているということを指摘しました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださったと、そのことを強調しています(4:10)。
そして、その神の愛は、イエス・キリストを罪の償いとしてお遣わしになったことの中に、最も鮮明に描かれていると、ヨハネは語ります(4:9)。ヨハネが神の愛を知ったのは、まさに遣わされてきたイエス・キリストというお方を通してのことでした(3:16)。ほかならぬ「ここに愛がある」とさえヨハネは述べています(4:10)。
そのような先行する神の愛によって罪から救われた者は、この愛に生かされ、互いに愛し合うことが求められています(4:11、3:23)。互いに愛し合うことを通して、神が信じる者たちの内にとどまり、神の愛が信じる者たちの内で全うされて行きます。
では、そのように神の愛が全うされるとき、何が起こるのでしょうか。それが、きょう取り上げた聖書の個所に書かれていることです。
ヨハネは、こう記しています。
「愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。」
「確信を持つ」という言葉は、「大胆である」という言葉が使われています。恐れや不安から解き放たれて、自由であり、大胆である状態です。ヨハネの文脈では、神の愛が信じる者のうちにまっとうされるとき、大胆でいることができる、というのです。神の愛が全うするとは、先行する神の愛を受け入れ、神がその人のうちにとどまってくださるということです。
それは例えていえば、こういうことです。
もし、草野球をしていて、打ったボールがよその家に飛んで行って、窓ガラスを割ったとします。もし、その家の人のことを全く知らないとすれば、どれだけ怒られるか不安です。まして、その人が自分に対して日ごろから敵意を抱いている人であれば、謝りに行くのさえ怖くなってしまいます。しかし、その家の人がまず出てきて、すべてをなかったことにしてくれたらどうでしょう。そればかりか、一緒に野球を楽しんでくれたら、どうでしょう。この家の人が自分のことをどれほど親しみ深く思ってくれているかを知っただけで、大胆に野球を楽しむことができるでしょう。
神が御子イエス・キリストを愛されたように、わたしたちのことをも愛してくださっています。そのことは、愛する独り子をわたしたちの罪のためにお遣わし下さった事の中にすでに十分すぎるくらい示されています。その愛に気がつくとき、その愛を受け入れるとき、もはや、最後の審判におびえる必要は少しもありません。
神の愛は、わたしたちの心から裁きへの恐れを締め出してくださいます。すでに神の愛が、すべてを解決してくださっているからです。
神はわたしたちが、神の愛のうちに、大胆に生きることを望んでくださっています。そのことのために、イエス・キリストをお遣わし下さいました。裁きを恐れて、内向きになってしまうのではなく、神に愛されたものとして歩み続けること、そのことを神は願っておられます。
神の愛に生きること、それは、ヨハネが何度も繰り返し延べてきたように、主にある兄弟姉妹を愛すること、互いに愛し合うことの中に実現されていくものです。それは、神がわたしたちを赦してくださったように、互いに赦し合い、受け入れあうことでもあります。愛するとはそういうことも含んでいます。