2020年4月9日(木) 神との一体と神の愛(1ヨハネ4:13-16)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
創世記の中にエノクという人が出てきます。彼の人生については、ほんの数行しか記されていません。しかし、とても印象的な言葉で記されています。
「エノクは65歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、300年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは365年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
「神と共に歩む」という表現が二度繰り返され、その生涯の終わりは「死んだ」ではなく、「神が取られたのでいなくなった」と記されています。前後に記される彼の先祖や子孫たちの系図には、一様に「何年生きて…そして死んだ」と記されるのとは対照的です。その生涯の最後が、神ご自身が彼を地上から取り去ったと言われるほどに、エノクの生涯は神と共に一つになって歩む生涯であったことを印象深く表現しています。
神と一つになり、神の内にとどまり続ける生き方は、信仰者の生き方として、このヨハネの手紙の中でも大切なテーマとして取り上げられています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 4章13節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネは手紙の冒頭で「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と記していました。御父と御子イエス・キリストとの交わりに読者が生きること、そのことのためにこそ、この手紙を書いています。
この交わりをヨハネは様々な表現で言い表しています。例えば、「御子のうちにとどまる」(2:27-28)、「神の内にとどまる」(3:24)、「(神の)愛にとどまる」(4:16)などの表現です。もちろん、交わりなのですから、わたしたちの側から一方的にとどまるのではありません。神の側からもわたしたちのうちにとどまってくださるという相互の関係です。
ヨハネがこのことを繰り返し書いているのは、その背景に、神から与えられたこの交わりから逸脱し、離れていく人たちがいたからです。そういう悲しみと危機感を背景にヨハネはこの手紙を書いています。
きょう取り上げた個所を読むと、まずヨハネは、神と信仰者が相互に交わりの関係の中に生きていることが、どのようにして分かるのか、ということから書き始めています。それは、神ご自身がご自分の霊をわたしたちに分け与えてくださっているという事実からです。御子イエス・キリストを信じる者に神が聖霊を与えてくださっていることは、新約聖書全体の中で繰り返し述べられているとおりです。
それは、ただ、神がご自分の霊をその人のうちに送ってくださっているというだけではありません、そのことは同時に、内に住む聖霊が、神との交わりを悟らせてくださるということでもあります。
聖霊がキリストを信じる信仰へと人を導き、聖霊が神との交わりを確信させてくださいます。信仰を持つということは、合理的に説明できることではありません。内に住む聖霊がその人を説得し、その人を信仰へと導いてくださいます。パウロは聖霊の働きがなければ、「誰もイエスは主である」と告白することはできないとさえ述べているとおりです(コリント12:3)。
先にも述べた通り、ヨハネがこの手紙を書いているのは、この手紙の読者が神との交わりの中にとどまり、神との交わりの中に生きてほしいと願っているからです。しかし、どんなに言葉を尽くして語ったとしても、ヨハネが読者を説得することはできないことは、ヨハネ自身がよく知っています。それを可能にするのは聖霊の働きだからです。
実は、ヨハネがこの聖霊の働きについて述べるのは、これが初めてではありません。すでに3章24節でもこう述べていました。
「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった”霊”によって分かります。」
ヨハネが人々に伝えたのは、説得のためではありません。ヨハネは目撃したことを目撃した通りに語り、聖霊がともに働いてくださることを信じていました。
14節でこう述べているとおりです。
「わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。」
そのヨハネの証言を通して、イエスが神から遣わされた救い主、神の御子であることを信じる者は、その信じること自体が聖霊の働きなのですから、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまっているということができるのです。15節でヨハネが述べていることは、まさにそういうことです。
ところで、ヨハネが証言したことは、ただ単に「御父が御子を世の救い主として遣わされた」ということに留まるものではありません。先週学んだ個所には、「わたしたちの罪を償ういけにえとして御子を世にお遣わしになった」ということの中に、神の愛が鮮明に示されているということでした。御子の派遣は、神の愛と切り離して語ることはできません。そのことを聞いて受け止める側も、神の愛と切り離して、御子がこの世に来てくださったことを理解してはいけません。
御子イエス・キリストを信じるということは、神の愛をそこに見出し、その愛に自分自身を委ねて、留まるということに他なりません。ですから、16節にある通り、愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださるということができるのです。
御子イエス・キリストを通して示された神の愛にとどまること、そのことが神と共に歩むことへとつながっていくのです。