2020年4月2日(木) 神は愛(1ヨハネ4:7-12)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神が愛であるなら、なぜこの世の中には悲惨なことが起こるのか、という質問をたびたび受けることがあります。悲惨な出来事を体験した人たちにとっては「なぜ?」という思いは、いっそう強いと思います。

 この問いに人間的に可能な限りの答えを見出そうとすると、とても希望のないものになってしまいます。というのは、人間的には二つしか答えがないように見えるからです。その一つは、神は愛であっても、悲惨を食い止める力がない、という答え。もう一つは、神はそもそも愛ではない、という二つの可能性しか、考えることができないからです。

 そもそも、「神が愛であるなら、なぜこの世の中には悲惨なことが起こるのか」という問いの立て方が、正しいのでしょうか。もちろん、苦しみの中にある人が、悲痛な叫びとして、そう問いたい気持ちはわかります。しかし、その問いがわたしたちを希望と慰めに満ちた真理へと導くことができるのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 4章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

 この手紙は、今まで何度も触れましたが、神がまずわたしたちを愛してくださった、ということを前提に書かれています。きょうの個所でも、「互いに愛し合いましょう」という勧めの言葉は、先行する神の愛が前提となっています。

 この手紙は「神が愛であるならば」という仮定で、物事を考えようとしているのではありません。神が愛であるという事実から出発し、愛は神から生じるものであり、愛する者もまた、神から生まれるという真理を展開しています。そして、生まれてきた子供が自分を生んだ親を知っているように、愛する者も神を知っているとヨハネは述べます。

 では、神が愛であることは、何によって知ることができるのでしょうか。9節でヨハネはこう述べます。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

 神が遣わされた独り子イエス・キリストの中に神の愛がもっとも鮮明に示されているというのです。御子イエス・キリストを世に遣わしてくださった神の願いは、わたしたちが生きるためでした。もちろん、この場合の「生きる」とは、ただ単に肉体的に生きているということではありません。神の御前に神と共に歩む幸福に満ちた生き方です。聖書の言葉で表現すれば、それは永遠の命に生きるということです。そのように、永遠の命に生きるようにと計らってくださる神の救いの御業にこそ、神の愛が明らかに示されているのです、

 それは続く10節で述べられているとおり、罪を償ういけにえとしてご自身を捧げられたイエス・キリストの救いの御業と深く関係しています。罪のある世界にはまことの幸福はありません。罪の問題が解決されない世界には、憎しみと争い、無関心と疑いが渦巻いています。

 その世界をどんなに注意深く観察したとしても、そこから神の愛を見出すことはできません。むしろ、ますます神に対して疑いの思いを抱き、神から離れていく一方です。

 ヨハネの視線はこれとは明らかに逆のベクトルです。この世に渦巻く闇を観察することで神の愛を見出そうとするのではありません。それはむしろ、疑いと混乱を招くだけです。そうではなく、遣わされてきた御子の中に神の愛を見出し、それを出発点として、神の愛を受け入れた者が、どう生きるかを考えているのです。

 ヨハネは何度も繰り返して述べているように、ここでも、神の愛に何よりもまず応えて生きることの大切さを教えています。

 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(4:11)

 ヨハネは神の愛に応えて生きることの大切さを、続く節でこのように表現しています。

 「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(4:12)

 これと似た言葉は、ヨハネによる福音書の冒頭部分にもあります。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)

 イエス・キリストを直接目撃した第一世代の人たちは、イエス・キリストの中に、恵みと真理に満ちた、目に見えない神を見出しました。このヨハネ福音書の言葉は、その感動を伝える言葉です。しかし、そのキリストは今は父なる神のもとに帰られ、もはやこの地上にはおられません。

 では、第二世代以降の人たちはもはや神の愛を実感することはできないのでしょうか。もちろんそうではありません。第一世代の使徒たちが書き残した文書を通して、キリストを知ることができます。

 それに加えて、ヨハネの手紙は、キリストを通して神の愛を受けた者たちが、互いに愛し合うときに、そこに神がとどまってくださると述べています。

 神の愛を信じて、神が愛してくださったように互いに愛し合う者たちの中に、神の愛が留まり、神の愛が全うされていくのです。

 わたしたちは悲惨な出来事の中に神の愛を見出そうとしても、見ることはできません。しかし、悲惨な出来事の中で互いに愛し合うことを通して、神の愛を表していくことができるのです。神はそのように生きることを望んでいらっしゃいます。