2020年2月13日(木) 真理を知る者と偽り者(1ヨハネ2:18-23)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
反対する者とか、抵抗する勢力を指して。「アンチ」という言葉があります。たとえば、「アンチ巨人」と言えば、特に応援するチームがあるわけではなく、とにかく巨人が勝たないことに喜びを感じる人たちのことを指して使います。
「アンチ〜」という言葉は、あまり良いイメージの言葉ではありませんが、最近では、「アンチエイジング」という言葉もよく目にするようになりました。老化や加齢に抗うという意味で、医学から美容まで様々なアンチエイジングがもてはやされています。
「アンチ」という言葉は、もともとギリシア語からきている言葉で、今日これから取り上げようとしている箇所にも出てきます。「対抗する」とか、「反する」とか、そういうニュアンスを現す言葉です。今日の個所では「反キリスト」「アンチキリスト」という言葉が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 2章18節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
ヨハネがこの手紙を書いたのは、1章の冒頭に記されているとおり、この手紙を読む人たちが、父なる神と御子キリストとの交わりの中に入れられ、そこに留まるためです。その交わりは永遠の命と深く結びついているからです。
しかし、この交わりに留まり続けることは、いろいろな意味で困難が伴います。というのは、罪に代表される闇の世界は、絶えず光の中を歩む者たちに挑んで来るからです。もちろん、ヨハネは圧倒的な神の恵みの勝利を確信しています。どんなに闇の勢力が力を増しているように見えても、神の愛から信じる者たちを引き離すことはできないことを信じています。キリストの贖いによって罪が赦され、キリストご自身が弁護者としてそばにいてくださるからです。
きょう、先ほどお読みした個所でも、その確信に翳りはありません。
けれども、キリストを信じて命の交わりの中に入れられている者たちが今直面している状況に対して、無頓着でいるのでは決してありません。
キリストに逆らう反キリストの出現に対して、キリストを信じる者たちの動揺を鎮め、励ます務めがあることを、ヨハネは誰よりも自覚していました。
反キリストが何者であるのかは、この手紙の受取人たちには、説明の必要がないほど明らかでした。あの人たちのことだ、ということがわかるほど、具体的にイメージ出来たことでしょう。ただ、それから2千年もあとの時代を生きる私たちには、それほど具体的ではありません。しかし、そうではありますが、きょうの個所からだけでも、その姿をある程度想像することができます。
まず、ヨハネが念頭に置いている「反キリスト」は決して得体の知れない相手ではないということです。ヨハネの言葉でいえば「わたしたちから去って」行った人たちです。そして、その人たちのことを「イエスがメシアであることを否定する者」と呼んだり、「御父と御子を認めない者」だと呼んだりしています。
もしこの人たちが、もともとはキリスト教会の中にいた人たちであるとすると、「イエスがメシアであることを否定する」というのは、考えられないことのように思われます。というのは、「イエスこそがメシア」であると信じるのがキリスト教だからです。
それは、彼らがキリスト教を棄ててしまったという意味なのでしょうか。おそらくそういう意味ではないでしょう。キリスト教であることを唱えながら、しかし、使徒たちから伝え聞いてきたキリストとは違うキリストを主張し始めたということでしょう。
単なる棄教や背教であれば、だれの目にも明らかです。そうではなく、同じものを信じていると言いながら、まったく違うキリストを信じているところに問題の大きさがあるのです。
それは部外者から見れば、どうでもよいような些細な違いにしか思えないようなことかもしれません。しかし、使徒たちがイエス・キリストから学んだ教えからは、大きくそれたものでした。
これは、今日でもそうかもしれません。キリスト教会は聖書に記された真理と、そこから外れた異端的な教えとを絶えず吟味してきました。
ヨハネは、異端と正統な教えとの違いを見分ける力を、この手紙の受取人たちが持っていることを確信しています。というのは、神の真理は、ただ神が聖霊を通して教えてくださるからです。誰も聖霊の注ぎがなければ、真理を悟ることはできません。聖霊の働きによってキリストを信じた人々であるからこそ、本物と偽物とを見分けることができると信頼してます。
イエス・キリストもヨハネの福音書の中で、こうおっしゃっています。
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。…羊はその声を知っているので、ついて行く。」(ヨハネ10:3-4)。
この手紙の書き手であるヨハネも、そう信じています。キリストの羊はキリストの声を知ってキリストについていくと。
ヨハネにとって、反キリストの出現は決して想定外の、動揺するような出来事ではありませんでした。それはキリストご自身が予告したことであり、終わりの時のしるしだからです。大切なことは、キリストのもとに留まり、命のまじわりの中に生きることです。その力をご自分の羊に下さっていると確信しているからこそ、交わりの中に留まるようにと確信をもって勧めているのです。