2020年2月6日(木) 「世」に対する警戒(1ヨハネ2:12-17)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 世界の「世」と書いて「よ(世)」という言葉があります。日本語でも「世」という言葉にはいろいろな意味があります。例えば、「世の中」というときの「世」は、人々が住んでいる社会を指しています。「世の中」という言葉自体に、良い意味も悪い意味もありません。けれども、同じ「世」でも「この世のことばかり考えている」というときの「世」は、天上の清らかな世界とは対照的で、どちらかと言えば物欲にまみれた世界を想像させます。

 聖書の中に出てくる「世」と翻訳される言葉も、文脈によってさまざまな意味があります。今日の個所に繰り返し登場する「世」は、決して良い意味での「世」ではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 2章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 きょうの個所は、子たち、父たち、若者たちへの呼びかけで始まり、しかも二度、子たち、父たち、若者たちへの呼びかけが繰り返されています。厳密には、訳し変えているとおり、一度目には「子たちよ」と呼びかけ、二度目には「子供たちよ」と呼びかけています、しかし、「子たち」と「子供たち」は別の集団を指しているというわけではなさそうです。基本的には「子ども」「父親」「若者」という三つのグループを対象に語り掛けた言葉と考えた方がよさそうです。

 問題は、それぞれのグループ分けは、何を意味しているのかということです。子供と父親という組み合わせは、両者の関係性を示した組み合わせで、必ずしも年齢差からくる成熟度を表しているとは限りません。確かに30歳の父親と25歳年下の幼児とでは、成熟度が全く違います。けれども、75歳の父親と25歳年下の子供とでは、人間としての成熟度に大差はないでしょう。

 しかし、「子たち」に替えて、二度目に呼びかけている「子供たちよ」という言葉は、「小さな子供たちよ」と訳すべき言葉です。実際そのように翻訳している聖書もあります。その場合は、親子という関係性よりも、まだまだ訓練やしつけを必要とする年齢に着眼した表現です。

 おそらく、そう言い換えたのは、ヨハネの念頭にあったグループ分けは、親子の関係性ではなく、成熟した人間、未熟な人間、そしてその中間にある人という意味で「若者」という言葉を使ったのではないかと思われます。

 成熟度の違いは生まれてからの年数と無関係ではありません。ですから、このグループ分けは、大雑把な年齢に従った分け方かもしれません。ただ、その成熟度がクリスチャンとしての成熟度を念頭に置いているのであれば、必ずしも年齢別とは言えないかもしれません、信仰に入って間もない人たちに対して、「子たちよ」と呼びかけているのであれば、20歳の人もいれば還暦を迎える人も、同じグループに属していたかもしれません。

 いずれにしても、それぞれのクループに属する人たちは、どの人も神との交わりの中にある正真正銘のクリスチャンです。子たちと呼ばれる人たちは、入り口を出たり入ったり、どっちつかずで、クリスチャンとは言えない人たちだという意味ではありません。成熟度には差があるかもしれませんが、皆、罪の赦しを与えられ、神との交わりの中に置かれた人たちです。「子たち」と言われていても、父なる神を知っている人たちです。光の中にいる人たちです。「父たち」と呼ばれている人たちも、同じように、はじめから存在するお方、神を知っている人たちです。ただ、信じてからの年数がたっている分、同じ「知る」でも、その深みが違うことは言うまでもありません。

 「若者たちよ」と呼びかけられる人たちには、若者らしい言葉で彼らの特徴が描かれています。彼らは、悪い者に打ち勝ちかつ強さを持った人たちです。しかし、その強さはどこから来るかと言えば、神の言葉が彼等の内にいつもあるからです。神の言葉を離れて、信仰者には、悪の誘惑に打ち勝つ力はありません。

 そのことは、「子たちよ」と呼びかけられているクリスチャンたちが、これから何度も身をもって経験することがらです。「父たちよ」と呼びかけられてきた人たちには、すでに何度も味わった経験です。そして、「若者たち」と呼びかけられているクリスチャンたちにとっては、今まさに様々な誘惑の中で御言葉によって強められているその力を経験しているところです。

 それぞれのグループにはそれぞれの信仰的な段階がありますが、皆、罪を赦され、神との交わりに加えられ、神の言葉をもって信仰に歩む人たちです。

 さて、そういうクリスチャン共同体であることを前提に、ヨハネは彼ら全員に強く勧めています。

 「世も世にあるものも、愛してはいけません。」

 これは三つのグループのどれか一つに対する言葉ではありません。子供たちであれ、若者であれ、成熟した父親であれ、神との交わりの中に生きる者が、心にとめなければならない教えです。

 この場合の「世」というのは、それ自体が良くも悪くもない中立的な世界という意味では決してありません。神に敵対する価値観や原理で満ち溢れているこの世の世界のことです。それは肉の欲、目の欲、生活のおごりに満ちた世界です。それらは「神から出ない」と表現されるように、神とは相い容れないシステムです。「世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」と言われるように、神とは両立できない世界です。

 さらに、「世も世にある欲も、過ぎ去って行く」ものです。神からいただく命の交わりが永遠であるのに対して、それらははかないもの、一時的なものにすぎないからです。永遠とは対極の世界にあるものだからです。

 確かにヨハネによる福音書には「神は…世を愛された」とあります(ヨハネ3:16)。しかし、その場合の「世」とは神に逆らうこの世の原理や勢力を是認されたということではありません。神が愛されたのは、そのような神に逆らうこの世の原理に翻弄され、苦しみ、悲しみの中にある人たちを憐れまれたという意味です。

 世を愛さないとは、そこに住む人を憎めということでは決してありません。神に敵対する生き方を嫌い、神の憐みの中に生きることです。