2020年1月30日(木) 古くて新しい掟(1ヨハネ2:7-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。旧約聖書は、大雑把に言えば、イエス・キリストが誕生する前の時代のことが記されています。その内容はユダヤ教の聖書と全く同じで、このユダヤ教の聖書のことをキリスト教では旧約聖書と呼んでいます。それに対して、新約聖書は旧約聖書で約束されていた救い主イエス・キリストの誕生以降のことが記されています。キリスト教では、それを新約聖書と呼んで、この旧新二つを合わせて「聖書」と呼んでいます。

 この二つの区分は、一方が行いによる救いを強調し、他方が信仰による救いを強調している、ということではありません。どちらも救いは神の恵みによることを教えています。どちらもそういう意味では福音的な内容です。この二つの違いは、ただ、キリストの新しい契約の中で、福音の真理がいっそう明らかにされたということです。

 きょう取り上げようとしている箇所にも、「古い掟」「新しい掟」という区別が出てきます。それらは、決して全く違う二つの掟ではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 2章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

 ヨハネがこの手紙を書いた大きな目的は、まことの命である父なる神と御子イエス・キリストとの交わりの中に人々を招き入れるためでした(1ヨハネ1:3)。しかし、神は光であり、まったく闇がないお方であるため、罪の闇に生きる者は、近づくことはできません。もしそうであるとするなら、神との交わりに生きることなど、人間にはできません。

 もちろん、自分は罪など犯したことがないと主張して、自分をごまかして生きることならできるかも知れません。しかし、ヨハネが望んでいることは、自分を偽って、神に受け入れられていると思い込んで生きることではありません。そのような生き方には本当の平安はありません。

 ヨハネが望んでいることは、救い主イエス・キリストが現れた今、キリストによって罪が赦されていることを信じて、罪を神に告白して生きることでした(1ヨハネ1:9)。救い主イエス・キリストがいるからこそ、神との交わりに入れられている確信を持つことができます。

 神の愛がいつも人間の救いに先行し、人は神の愛に応えて生きるとき、神との交わりの中にいることができるのです。

 そして、そのことをヨハネは大切な教えとして、この手紙を通して伝えようとしています。この恵みの中に生きるとき、本当の意味で神を知っているということができます。

 けれども、神を知っていると言いながら、神の掟を守らないとしたら、その生き方はどうなのでしょうか。

 ヨハネにとって罪の問題は決して無視することの出来ない現実の問題でした。だからこそ、救いのために、自分の罪を告白し、罪の赦しをいただくことが大切でした。そして、ヨハネにとっての救いとは、単に罪の赦しを得ることで終わりなのではありません。むしろ、罪を赦していただくほどの愛を受けたのですから、この愛に留まり、この愛の内を歩むことが、神を知っている者の生き方でした。救いの恵みをいただいているからこそ、神の愛に生きるようにと求められているのです。

 きょう取り上げた個所は、そういうことを踏まえて書かれている言葉です。

 ヨハネは先行する神の愛に応えて生きる生き方を、「新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟」であると述べます。確かにその通りです。

 神がモーセを通してイスラエルの民に十戒を与えるときに、最初におっしゃったことは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したものである」という言葉でした。それは、先行する救いの恵みを宣言する言葉で、この愛に応えて生きるようにと十戒が与えられているのです。十戒はイエス・キリストがその内容を要約してくださった通り、神への愛と隣人への愛を求めた掟です。

 救われて神との交わりにいると言いながら、兄弟を憎むとするなら、それは神の愛に応える生き方ではありません。もちろん、人間の弱さから、完全には人を愛することはできないかもしれません。しかし、それは人間にとって当たり前のことと考えるのと、決してあってはいけないことと考えるのでは、大きな違いです。できないということと、仕方がないというのとは、まったく違うことです。

 完全に愛することができないという事実が、人を憎んでも仕方がないという言い訳になってはいけません。たとえ完全ではないとしても、神の助けをいただいて、神の愛に応えて生きようとすること、そのことが大切です。

 ヨハネは、「初めから受けていた古い掟」と言いつつ、
「新しい掟」でもあると述べています。

 それは、何よりもイエス・キリストにあって、旧約の時代よりもいっそうはっきりと神の恵みが示されているからです。

 イエス・キリストご自身、最後の晩餐の席上で、弟子たちにこうおっしゃいました。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 弟子たちはイエス・キリストを通して示された神の愛に確かに触れました。それは弟子たちにとってリアリティに溢れるものでした。後に弟子の一人となったパウロもまた、「キリスト・イエスを通して示された神の愛からわたしたちを引き離すものはない」と断言するほどに、キリストのうちに神の愛を実感しました。そういう意味で、キリストを通して示された神の愛に生きる掟は、古くて新しいと言いえるのです。

 神との交わりの中に生きるとは、結局のところ、イエス・キリストを通して示された神の愛に応えて生きることに他なりません。