2020年1月16日(木) 光である神との交わりに生きる(1ヨハネ1:5-10)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
光は昔からいろいろな意味で、人間にとって興味と関心の対象でした。いろいろな意味でと言ったのは、科学的な意味でもそうですし、宗教的な意味でも、人の関心を惹いてきたからです。例えば、科学の世界では、光は粒子なのか波なのか、という問題がずっと議論されてきました。光を波ととらえなければ説明がつかない現象があるかと思えば、光が粒子と仮定しなければ説明がつかない現象があるからです。また光の速さについても興味の尽きない議論がつづきました。光よりも速く移動することができるか、という問題は今なお研究が続いています。
宗教的な関心ということでも、光は宗教的なイメージや象徴として、昔から用いられてきました。光が持つ闇との対称性やまっすぐな性質など、宗教的なモチーフを表すものとして光は様々に用いられてきました。場合によっては光そのものが神として神格化されることもありました。
きょう取り上げようとしている箇所にも、「神は光である」と言われています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 1章5節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
今お読みしました個所に、「神は光である」と記されていました。もちろん、その意味は文字通りの「光」ということではありません。聖書の世界では、「光」そのものも、神によって造られたもの、つまり「被造物」です。ですから、神が文字通りの光であるとするなら、聖書自身の言っていることが矛盾してしまいます。
神が光であるという意味は、直後に述べられていることと、セットで読む必要があります。つまり、神が光であるということの意味は、神には闇が全くないということです。
この場合の「闇」というのも、文字通りの「闇」ではありません。比ゆ的な意味での「闇」です。罪に覆われた世界を「闇」と表現するならば、聖書の神は正にその闇に覆われた世界に対峙する存在です。しかし、光である神が対峙する闇は、永遠に神と対立し、いつまでたってもなくならない闇ではありません。光はすでに闇に打ち勝っています。
ヨハネによる福音書の冒頭部分で、こう述べられています。
「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:5・口語訳)
神が光であるというとき、それは、単に闇に対立するお方というだけではなく、闇に対して圧倒的な勝利者であるということでもあります。
この手紙によれば、そのことを知らせたのは、イエス・キリストであると述べられています。イエス・キリストを知るとき、神の圧倒的な清さと闇に対する勝利とを確信することができるのです。
けれども、ここで一つ大きな問題に直面します。前回学んだ個所によれば、この手紙が記された目的は、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに読者を招き入れる事でした。そのような清いお方の前に、果たして人間は立つことができるのでしょうか。
ヨハネは続けてこう述べます。
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」
人間の現実を見れば、どんなに取り繕ったとしても、已然として、闇の中を歩み続ける弱い存在です。最初から闇の中を歩かないことができるのであれば、とっくに神との交わりの中に生き続けることができたでしょう、しかし、現実は、嘘つきで、真理とは程遠いのが罪人である人間の姿です。神のみ前に、偽善的な生き方を送って、神の目をごまかすことなどできません。
では、わたしたちに神との交わりに生きる希望はないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。
確かに罪人であり、闇の中にいるわたしたちですが、そうであればこそ、光の中に招かれているのです。光に留まるようにと神から手が差し伸べられているのです。神が罪の世界に生きるわたしたちのために、御子イエス・キリストを送ってくださっています。光がこの世に来てくださいました。光である神がそのようにへりくだって私たちの世界に降りてきてくださったからこそ、光の中を歩むことができるのです。
光の中を歩むことでどんな変化が生まれるのでしょうか。互いに交わりを持つようになることと、イエス・キリストの血が、あらゆる罪からわたしたちを清めてくださることです。
ヨハネは、自分に罪がないというなら、それは自分を欺いていると言います。罪があるからこそ、キリストの救いが必要なのです。それが真理です。罪からまったく清められるためには、光である神との交わりの中に生き、イエス・キリストの救いの御業にあずかることが必要なのです。
ヨハネは罪を公に告白するようにと勧めています。そう大胆に勧めることができるのは、キリストにある罪の赦しを確信しているからです。赦されることがないのであれば、罪を認めることも告白することも意味がありません。いえ、意味のある大切なことかもしれませんが、赦されるのでなければ、罪を告白する勇気などでないでしょう。
神が交わりの中へと招いて下さり、神が赦してくださるからこそ、光の中をあゆみつづけることができるのです。大胆に神の光の中を歩みましょう。