2020年1月2日(木) 最後の勧め(1テモテ6:17-21)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
大学の購買部に行くと、その大学のロゴの入ったグッズや、その大学ならではの面白い商品を売っていることがあります。だいぶ前、アメリカのある大学の購買部で見かけたTシャツに、「主よ、〇〇大学の卒業生が謙遜でいることは、なんと難しいことでしょう」と書かれたのを見かけました。謙遜でいることは誰にとっても難しいことであって、出身大学とは本来関係ありません。しかし、あえてそう言ってのけ、母校に対する誇りを、アメリカ人らしいユーモアで表現したTシャツでした。
それにしても、人を高ぶらせ、高慢にさせてしまう誘惑の原因は人間には事欠きません。人よりちょっと良いものを手に入れると、自分が偉くなったように錯覚したり、ちょっといい点数を取ると、賢い人間のように思いこんだり、本当に謙遜でいることは難しいものです。
きょうでテモテへの手紙一の学びも最後になりました。この手紙を締めくくる言葉から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 6章17節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。
テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。
恵みがあなたがたと共にあるように。
最後の学びの区切りをどうするか、迷うところがありました。内容的には、17節から19節までが一つのまとまりで、富についての警告と勧め。20節と21節は信仰の遺産を守るようにとの勧めで、手紙全体を総括しているという意味で、20節以下が本来の結びと言えるかもしれません。
しかし、きょうはあえてその二つをまとめて取り上げることにしました。内容を見てみると、この二つのまとまりは、決して無関係な内容ではありません。富に関して言えば、富に望みを置くときに、人は高慢になって神から離れてしまうという危険があります。他方、信仰の遺産を守るということに関しては、知識を鼻にかけ、信仰が知識だけに支配されるとき、信仰の本質から逸脱してしまう危険があります。この二つのまとまりの背後には、人間の高ぶり安さの危険が示されています。
手紙の構造という点でも、この二つのまとまりは、密接にかかわっています。
6章3節以下で、パウロは異なる教えの危険性を取り上げました。その流れの中で、信心を利得と考え、金銭欲に走ることの危うさを指摘しました。今日とり上げた17節以下は、それとは逆の順番で、富についての問題と信仰にかかわる正しい教えのことが取り上げられています。AからBへ展開した手紙の内容が、BからAへと結ばれていく、そういう構造になっているという意味で、17節以下のまとまりを一回で取り上げることにしました。
さて、この手紙を結ぶにあたって、再び富の問題が取り上げられます。ただし、前に6章の9節で取り上げられたのは、これから「金持ちになろうとする者」に対する警告でした。それに対して、17節に登場するのは、今すでに「富んでいる人々」に対する命令です。ここでは、単に富や財産を否定するのではなく、富の危険性を指摘し、富をどう用いるべきかを積極的に教えています。
富を持つことの危険性は、一つには、富の多さが自分の安全に直結していると思い込み、人を高慢にしてしまう危険です。その点に関しては、イエス・キリストがルカによる福音書の12章に記された「愚かな金持ちのたとえ」の中で教えておられているとおりです。つまり、人間の命の長さは決して財産の多い少ないでは決まらないということです。財産の多いことが決して安心の材料ではないことは自明のことです。命は神の御手の中にあるからです。
そうであればこそ、変わることのない神に望みを置くときに、その望みは確かなものとなることができるのです。パウロは財産があるからと言って安心するのではなく、富があってもなお神に望みを置き、信頼して生きるようにと命じています
神に望みを置き、信頼して歩み時に、富の使い方も変わってきます。富が安心の唯一の材料であるうちは、それを他者のために使うという発想はまずもって出てきません。しかし、神がもっとも確かな命の源であることを知るときに、そして、その神が自分の命を支えてくださると信頼するときに、富を惜しまず分かち合う思いが出てくるのです。パウロは教会に集う人たちがそうなることを望んでいます。
神がそのようなお方であり、その神に信頼して生きることを教えているのは、テモテが受け継いだ信仰の遺産に他なりません。
パウロを通してテモテが受け取った福音によれば、神はただ恵みと憐みによって罪人をお救いになるお方です。それは、罪人の最たる者と自覚するパウロが、自分自身の経験をもって確信したことでした。
キリストの尊い血潮が代価としてすでに支払われ、信じる者は無償で救いにあずかることができるようにとしてくださった神です。
けれども、その福音が、間違った教えによってゆがめられようとしている危機に直面しています。パウロはこの手紙の中で、何度もテモテに命じて、その危機から教会を守るようにと命じてきました。
そもそもこの手紙の冒頭にもあるように、パウロがテモテをエフェソに置いてきたのは、異なる教えや作り話から教会を守るためでした。
手紙を結ぶにあたって、再び、俗悪な無駄話と間違った知識を警戒するようにと注意を促しています。それらは真の信仰的な遺産に対して、まったく中身のないうつろなものです。
こうした間違った教えを避けることと、ゆだねられたものを守ることとは、表裏一体をなしています。教会の健全性は、使徒たちによって受け継がれてきた教えに、いかにしっかり立つか、そのことにかかっています。