2019年12月19日(木) 満足を伴った信心(1テモテ6:6-10)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「満足」と「向上心」とは相反することのように感じられます。もし人が、どんなことにも満足しているとすれば、これ以上よくなろうとする気持ちはなくなるはずです。例えば、移動の手段は徒歩で十分とみんなが満足できれば、車も飛行機も生まれなかったでしょう。しかし、もっと短時間でもっと遠くへ移動できれば、もっと豊かな生活を送ることができるという願いや必要から、実際には車も飛行機も生み出されてきました。それは向上しようとする人間の営みが生み出してきたものです。
しかし、「向上心」と「欲望」は時々境目がはっきりしないことがあります。先ほどの例でいえば、車や飛行機ができたおかげで、産地から遠く離れた場所に生鮮食料を供給することができ、新鮮な食料に困っている地域を助けることができるという利点があります。しかし、他者の役に立とうとする向上心から離れて、ただそれによって生み出される利益だけを追求するということになれば、それはもはや向上心というよりは、ただの欲望の追求でしかありません。
信仰を持つ者として、満足と向上心の陰に隠れた欲望の罠から逃れて生きる大切さを思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 6章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
前回取り上げた個所には、異なる教えを説いて教会を混乱に巻き込む人たちのことが記されていました。パウロの見立てによれば、その人たちは真理への関心から異説を唱えているというよりは、その根っこには高慢な思いがあり、ただ議論のための議論に陥っている人たちでした。さらには、信仰をもって敬虔に生きることを、単なる利益を得るための手段であると履き違えている者たちもいました。
きょうの個所は、「利得の道」をめぐってさらに掘り下げています。
キリスト教の番組を担当していて、時々聞かれる質問に、「キリスト教を信じたら、何か得することがありますか」という質問があります。もちろん、信じても何も変わらないのであれば、信じる意味がありません。しかし、「得する」という言葉が、自分が期待する願いをすべて満たしてくれる、という意味だとすれば、キリスト教を信じたからと言って、そんな安請け合いはできません。
前回の個所で出てきた「利得の道」という言葉は、自分がこうあってほしいと願う願望を実現する手段という意味で使われていました。敬虔な信仰心が、そういう願いを実現する手段であると考えることに、パウロは問題を感じていました。パウロの見立てによれば、異なる教えが起こる根っこには、そうした信仰に対する思い違いがあったからです。
しかし、パウロは「利得の道」という言葉そのものに問題を感じていたわけではありません。むしろ、利得ということをどうとらえるかが問題です。そして、利得をどうとらえるかということには、信仰心が大きくかかわっています。
パウロは、「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」と言い切ります。これは「満足を伴った信心は利得の道である」という言い方です。それは「信心には満足を伴った信心と、満足を伴わない信心がある」という意味ではありません。むしろ、信心には当然のように満足が伴い、この二つは切り離すことができないという意味でしょう。そういう意味で真の信仰心には、本来、欲望が入りこむ隙間はありません。
しかし、現実の信仰者が、欲望から全く解放されているかというと、そうではないでしょう。残念なことですが、信仰者のあるべき姿と、現実の姿にはギャップがあります。そのギャップに気がつかないまま、あるいは、気がついていても放置したまま信仰生活を送り続けるときに、大きな問題が起こってきます。
それにしても、パウロは一方では、信心を利得の道と考える者を批判しながら、どうして他方では満足を伴う信心は、大きな利得の道だと言い切っているのでしょうか。
続く節には、その理由がこう述べられています。
「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。」
一見すると、この言葉は、何の説明にもなっていないように思われます。確かにわたしたちは裸で生まれ、生きている間に手に入れたものを死後の世界に持っていくことはできません。そのことは真実です。
そのことと、満足を伴う信心が利得の道であることとどうつながるのでしょうか。
「何も持たずに生まれてきた」という事実は、「だから、これからも何も持たなくてよい」という極端な考えと、「だから、人を押しのけてでも、必要なものは自分で手に入れる」という反対の極端に人を導きがちです。しかし、パウロの発言の前提には神への信仰があります。それは、創造者である神が、必要なものはかならず与えてくださる、という謙虚な信頼です。そういう信仰のあるところでは、ものによって換算される数量的な満足ではなく、神に愛されているという思いが、心に満足感を与えます。
「世を去るときは何も持って行くことができない」という事実も、「だから、生きていてもむなしいだけだ」という虚無感と、「だから、生きているうちに贅沢の極みまで楽しみたい」という極端な考えを生み出します。しかし、ここでもパウロの発言には信仰的な背景があります。有り余るものであふれるよりも、今、与えられているものの中に神からの恵みを見出す喜びです。その積み重ねの中で将来の安心も確信することができます。死後の世界に持っていけないから虚しいのでもなければ、死後の世界に持っていけないから、この世での贅沢を楽しむのでもありません。生きるときも死ぬときも、神が共にいてくださるから、死に際して何も持っていく必要がないのです。
そう信じて生きることが、信仰者にとって大きな益なのです。
反対に、このような神への信頼がまったくなければどうなるでしょう。お金がすべてであるような思いに、人々を迷い込ませるでしょう。パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根」であると断言します。金銭そのものが悪なのではなく、金銭が自分を支えると思い込み、それに頼ろうとするときに、神がないがしろにされ、人までもが阻害されてしまうのです。