2019年12月12日(木) 異なる教えの根と果実(1テモテ6:3-5)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の中で、何かについて議論するということは、決して悪いことではありません。信仰に関わる事柄について、あるいは信仰生活に関わる事柄について、議論を重ねる中で成長してきたというキリスト教会の歴史があります。もちろん、その議論は聖書から導き出される教えに基づいた議論です。

 けれども、教会の中で起る議論は、必ずしも真理を求める純粋な信仰心から出てくるものばかりとは限りません。あるいは最初は真理を巡る純粋な議論であったものが、途中からただの勢力争いや議論のための議論に陥ってしまうということも起こります。

 今日取り上げようとしている箇所に出てくる「異なる教えを説く人たち」は、パウロの見立てによれば、真理を純粋に探究した結果、ほかの人とは異なる立場に立たざるを得なくなった人たちとは違うようです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 6章3節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。

 きょうの個所の冒頭にでてきた「異なる教えを説く」という言葉は、この手紙の中で既に1章3節に出てきました。そこにはこう記されています。

 「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。」

 テモテがエフェソに留まるようにとパウロから命じられた理由の一つは、異なる教えを説かないようにと、ある人々に命じるためでした。

 そのためにテモテはエフェソに残っているのですから、ここにきて再び異なる教えを説く人たちについてパウロが取り上げたとしても、少しも唐突ではありません。

 異なる教えの具体的な内容に関しては、1章にも出てきた通り、作り話や系図を巡るとりとめのない議論も含まれていたことでしょう。あるいは4章で言及されているように、結婚を禁じたり、ある種の食べ物を禁じたりすることも含まれていたかもしれません。いずれにしても、異なる教えを説く人たちは、「イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者」と言われています。

 パウロはここで、異なる教えの内容そのものを吟味し論駁しようとはしません。おそらくそれは、取り上げるにも値しない愚かな教えだったからでしょう。パウロの見立てによれば、「イエス・キリストの健全な言葉」からも、「信心に基づく教え」からも、明らかに異なっている教えです。

 パウロはここで、異なる教えを説く人たちの根っこにあるものをこう表現しています。

 「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています」。

 パウロの見立てによれば、異なる教えを説く人たちの根っこには「高慢さ」があります。もちろん、パウロは一般論でそう言っているわけではありません。異論を唱える人のすべてが高慢であるわけではありません。しかし、少なくともエフェソの教会で問題となっている人たちが、異なる教えを唱える原因には、彼らの高慢さが影響しているということです。

 どんな人でも無知や誤解から違ったことを唱えてしまうことは起こりうることです。異なる説を唱えることが、単に無知や誤解から生じているのであれば、それを丁寧に正せば済むことです。しかし、無知や誤解からではなく、高慢な思いから異なる教えを説いているのだとすれば、聞く耳を持たなくなってしまいます。

 キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも「従わない者」という言葉が、彼らの高慢さを的確に表現しています。うっかりしていて従わないのではなく、考えがあって従わないのです。しかもそれは、高慢にもその自分の考えが正しいと確信しているからです。

 少なくとも、異なる教えを説く人たちが説く教えの内容は、キリストの言葉とも、使徒たちの教えとも違っているのですから、自分たちの正統性を弁明しなければなりません。けれども、エフェソの教会で問題となっている人たちは、その用意すらないようです。

 彼らは「何も分からず、議論や口論に病みつきになって」いる、ただそれだけの人たちです。

 そこからは何の建徳的な実りも生じません。パウロは辛らつにも「そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。」と彼らの異なる教えの行きつく結末を語ります。

 正統的と信じられてきたことがらに、異説を唱えることは、必ずしも悪いことではありません。キリスト教会、とくにプロテスタント教会は、時代の要請に応じて、絶えず神の言葉である聖書に聞いて、何が真理であって、どの教えが聖書的であるかをいつも吟味してきました。時には過去の聖書の読み方が間違っていたことを率直に認めることもあります。

 けれども、この手紙の中で異なった教えを説く者たちは、そういう真理の探究者とは明らかに違った人たちでした。神の言葉を巡って異説を唱えているのだとすれば、パウロは神の言葉をもって反論したことでしょう。

 けれども、パウロの見立てでは、彼らは「真理に背を向け、信心を利得の道と考える者」たちだったのです。

 真理に背を向け、真理に関心のない人と、いくら話をしても平行線です。まして、信仰生活を御利益を得るためのものと考える人たちとは、話がかみ合うはずもありません。

 では、この人たちをどう扱うべきなのでしょうか。次回取り上げる6節以下にそのヒントが隠されています。ただ、少なくとも1章5節で学んだようにパウロの命令は「愛を目指すもの」です。議論のために議論に巻き込まれることなく、しかし、ただ異端者として彼らを断罪するのでもなく、彼らが正しい教えに立ち返るように心から愛をもってこの問題を扱うことが大切です。