2019年11月21日(木) 登録されるべきやもめ(1テモテ5:9-16)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会が経済的な援助をすべき人は誰か、というテーマで話し合いを持ったとしたら、意見が百出して、収拾がつかなくなるかもしれません。おそらく最初の議論は、そもそも教会は誰かに対して経済的な援助の手を差し伸べるべき組織なのか、という議論が起こるかもしれません。あるいは、その相手は教会員を優先すべきなのか、それとも誰でも公平に扱うべきなのか、という議論も起こるかもしれません。
そうした議論に対して、「教会が困っている人を助けないなら、証にも伝道にもならない」という考えも出てきます。しかし、それに対して、「証や伝道のために、人助けをするのは、偽善的ではないか」という批判の声もあるでしょう。あるいは、「そんな議論ばかりで、本当に助けを必要としている人が、ないがしろにされてしまうのは、いかがなものか。いったい誰のための議論なのか」という意見も出てくるでしょう。
おそらく、基本的に抑えておくべき点と、時代とともに変わっていく点があるので、絶えず教会が自分たちのありかたを考え続けて行くことが大切なのだと思います。
きょう取り上げる個所も、現代にそのまま通用するとは思えませんが、学ぶべき点はいくつもあると思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 5章9節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
やもめとして登録するのは、60歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。 信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。
今、お読みした個所は、先週取り上げた個所の続きです。そこにはやもめについての問題が取り上げられています。夫を失った女性は時代と場所を問わず、どの社会にも存在します。そして、教会の中にも、そうした人たちが存在します。
今の時代でもそうかもしれませんが、特にテモテへの手紙が書かれた時代のやもめたちは、経済的に困窮することが多かったと思われます。それは、一般的に女性の社会的な地位が低かったことと、社会的な福祉制度が未発達であったということがあるからです。
今、この手紙が問題としているのは、教会の中にいるやもめの問題です。そのことは、教会は教会の外部に対して無関心であったということでは必ずしもありません。むしろ、教会の中だけで、手いっぱいだったということでしょう。
先週取り上げた個所の要点は、まず、本当のやもめとそうでないやもめの区別をつけるという事でした。少なくとも、だれか身内の者で、そのやもめを助けることができるのであれば、その人にまず世話をさせるべきだという原則でした。身寄りがなく、一人暮らしをしている人こそ、ほんとうのやもめとして扱うという原則です。
しかし、そればかりではなく、同時に、その人の信仰者としての敬虔さということも大切なチェックポイントでした。確かに、教会の中でことを進めるときには、信仰深さや敬虔さということも大切なポイントであることには頷けます。誰かをつまずかせてしまうような人を排除するという意味ではなく、誰もがその生き方を模範として学ぶようになれば、教会全体の徳が建て上げられていくからです。
今日取り上げた個所には、さらに細かな具体的なポイントが記されています。
テモテの時代の教会では、教会が援助すべきほんとうのやもめは、60歳未満であってはならないこと、一人の夫の妻であったこと、善い行いで評判のあった人、という条件が付けられています。
60歳という年齢制限が設けられているのは、やもめとして生涯暮らしていくことができるかどうかの、目安として考えられているようです。
パウロが願っていることは、若くしてやもめになった場合、最初から教会の世話になって暮らすことを考えるのではなく、再婚の道を考えてみるということです。もちろん、こうした考えには、女性の幸せは結婚にあるという古風な価値観が影響しているという批判もあるかもしれません。
しかし、パウロが考えていることは、結婚至上主義なのでは決してありません。若くしてやもめになった者たちが、最初から教会の援助のもとで暮らすとき、どんな弊害が起こりがちなのか、そのことを懸念しての勧めです。信仰者としての品位を保つことができなくなるのであれば、再婚の道を考えてみることも、大切な選択肢の一つなのです。けれども、60歳を超えた人に再婚することを求めることは、当時として理にかなったことではなかったでしょう。その年齢に達すれば、再婚することは難しいということもありますが、その年齢までやもめとして非難されることなく生きてきたことが、何よりも本当のやもめとしてのしるしと考えられるからです。
「一人の夫の妻であった人」という条件が具体的に想定していることが何であるのかは、定かではありません。60歳までに再婚しなかった人、という意味なのか、あるいは、一人以上の夫と重婚したことがないという意味なのか、おそらく前者の意味であろうと考えられます。つまり、その年齢まで再婚することもなく、品位を保ってやもめとして暮らしてきた人、という意味でしょう。
三つ目の条件に、「善い行いで評判の良い人」という項目が加えられています。具体的には「子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか」そういう行いです。
教会の援助で暮らすことになるやもめたちが、それを支える信徒たちのつまずきとなったとしたら、誰もやもめたちを支え続けようとはしなくなるのは当然です。むしろ、信仰者として模範的な生き方の人であれば、よい影響を周りに及ぼすことができます。教会の成長は、御言葉に学ぶことと、御言葉に生きる模範に接することによってもたらされます。
そういう意味で、パウロにとってこの問題の中心は、教会全体の益のために、誰に援助の手を差し伸べるのか、ということを考えることです。