2019年11月14日(木) 様々な人間関係の中で(1テモテ5:1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
テモテへの手紙一の学びも、きょうから5章に入ります。ここには教会という共同体に集う人々に対して、その人々のことをどう考え、どう接していったら良いのか、具体的なことがらが記されています。おそらくこの個所を読むときに感じることは、一つには、ここで言われていることが、ある程度どの社会にも共通しているということです。ここで勧められていることをキリスト教会とは違う共同体にもっていって当てはめたとしても、それほど違和感はないかもしれません。
もう一つは、ここに記されていることは、わたしたちが生きている時代の教会とは、必ずしも同じ状況ではないとうことです。たとえば、ここには「奴隷の身分の人」という存在に言及されていますが、わたしたちの住んでいる日本の社会では、そういう身分制度もなければ、そういう身分の人もいません。もちろん、ブラック企業で奴隷のように過重な労働で苦しんでいる人はいるかもしれませんが、そのこと自体が違法なことと認識されています。
しかし、そうした時代性の問題にも拘わらず、キリスト教の信仰者として、ここから学ぶべき点はたくさんあると思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 5章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。
今、お読みしました個所の大部分を占めているのは、やもめについての勧めの言葉です。やもめに関しては、まだ続きがありますが、少し長くなってしまうので、次回、続きを取り上げたいと思います。
さて、5章の1節と2節で言われていることは、まるで道徳の教科書のようにも聞こえるかもしれません。そして、ここに記されていることは、多少は古風な感じを与えますが、どこの社会へもっていっても違和感のない教えです。
「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」
一教会員としてもそうですが、教会の群れを任されたテモテとしては、そこに集う人たちとうまくやっていく知恵が必要です。まったくの無関心で、一切干渉しないという立場を貫けば、確かにその人たちと争う状況には陥らないでしょう。何も問題がなければ、それでも良いかもしれません。しかし、ここに記されていることは、何か相手を諭さなければならない状況が前提にあります。
キリストを信じる者として生きるとき、その信仰にふさわしい生き方があります。そこから外れている者がいるときには、相手を諭して、正しい道を歩むように導く必要があります。テモテにはそういう責任があります。
教会に集っている人は、必ずしも血のつながりがある人たちではありません。他人と言ってしまえば、そうかもしれません。しかし、そこに集う人たちは皆、神の子イエス・キリストと結ばれて、神の家族とされた人々です。そういう気持ちで接することの大切さがまず教えられています。教会に集う人々は主にあって決して他人ではありません。
もう一つの大切な点は、問題が起こった時に、「非難する」のではなく「諭す」という態度です。非難することは簡単なことですが、根本的な問題の解決には至りません。親身になって諭すときに、人の心は動きます。
どんなに正しいことを言っているとしても、相手がそれを素直に受け取ってくれなければ、意味がありません。わざわざ相手の尊厳を傷つけたり、いらだたせるような嫌味を言って、自分の指導に服従させるようなやり方は、賢いとは言えません。まして力づくで相手をねじ伏せることは、教会的なやり方ではありません。
次にパウロが取り上げる教会内の問題は、やもめについての問題です。やもめとは、夫に先立たれてしまった女性を指す言葉です。広い意味では、夫から離縁されたり、遺棄された女性も含んでいたかもしれません。時代と場所をとわず、どの社会にも存在します。それはキリスト教会だけの問題ではありません。いわば、人類共通の問題です。
ここで、パウロが取り上げているやもめは、ただ単に夫に先立たれてしまった女性というばかりではなく、来週取り上げようとしている5章の9節以下で言われているように、教会的な扱いとして、誰を「やもめ」として登録するか、という問題です。
そういう意味では、今の日本の教会には、やもめの登録制度ということはありませんから、この個所は時代的な制約のある話題かもしれません。しかし、そのような制度を定め、それを運用していった古代教会の知恵には、学ぶべき点があるように思います。
今の社会でもそうですが、一家の経済を支える夫を失た女性が、家族を支えて生きていくことは、それほど簡単なことではありませんでした。現代と古代を簡単に比較することはできませんが、今の時代であれば、行政の福祉的な支援があるため、教会がそうした立場の人たちに対して経済的な支援の手を直接差し伸べる必要は、そう大きくはないかもしれません。もちろん、古代教会の場合は、核家族ではなく大家族制度でしたから、助け合う仕組みは、今の時代よりも良かったかもしれません。ただ、やもめが弱い立場であったことは、聖書の中に登場するやもめたちの記事を読めば明らかです。
では、当時、教会の共同体の中に、やもめたちが集うとき、教会にはどういう知恵が求められていたのでしょうか。その一つは、援助の必要性とその人の敬虔さを見極めるということでした。
3節の「身寄りのないやもめ」という新共同訳の翻訳は、直訳すれば「ほんとうのやもめ」という言葉です。ほんとうのやもめは、子どもや孫など、面倒を見てくれる親族がおらず、身寄りのない一人暮らしであるということが条件でした。それに加えて、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けるという敬虔さも、ほんとうのやもめの印でした。
身寄りのないやもめの生活を助けるため、という目的であれば、その人の敬虔さは関係ないように思われるかもしれません。確かに教会にお金がふんだんにあるのであれば、困窮している人を誰でも助けるべきでしょう。しかし、現実はそうではありません。限られた予算の中でやもめたちを支えなければならないとしたら、援助に期待を寄せる人よりも、神に希望を置く人を助けるのは道理にかなっているように思われます。
というのは、神に望みを置く敬虔な暮らしを送る人は、必要以上を望みませんし、必要が満たされなくても不平を言わないからです。そのことは、やもめたちを支える人たちへの模範でもあり、励みともなるからです。