2019年11月7日(木) 神からの賜物を重んじて生きる(1テモテ4:11-16)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神学校を卒業したての若い牧師は、牧師としての経験も少なければ、信仰生活の長さという点でも、自分が牧会する教会員よりもずっと短いことがあります。そういう意味では、謙遜に振舞うことの大切さは、若い牧師にどんなに強調してもし過ぎることはありません。

 しかし、ただ若いからという理由で、軽く見られてしまうということがあってはなりません。そうならないためにも、神のみ言葉を大胆に解き明かし、委ねられた群れのために心から仕える姿勢は、決して、若さを理由に未熟であることの言い訳としてはなりません。

 老練のパウロから見れば、テモテはまだ若く感じられたことでしょう。そうであればこそ、この若者の働きが、教会でよりよく用いられることをパウロは切に願ったことでしょう。

 きょう取り上げる個所にも、その思いが切々と伝わってきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 4章11節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。

 牧師の務めには様々な内容を含みますが、御言葉の命じることを大胆に命じ、教えることは重要な要素の一つです。教会の牧師が公的な立場で命じたり教えたりすることは、決して自分の個人的な意見や考えであってはなりません。聖書の権威に基づくのでなければ、それらの教えや命令に何の権威もありません。

 このことは、一方では、老練の牧師にとっては、十分に自戒すべき点です。自分が講壇から解き明かしていることが、聖書の教えを逸脱していないか、自分の思いを聖書の言葉を借りて語ってはいないか、謙遜になって吟味する必要があります。

 しかし、反対に若い牧師にとっては、たとえそれが聖書の命じる事柄であったとしても、若い自分が言うのでは、誰も聞き入れてはくれない、と気後れしてしまうことがあります。けれども、それは裏を返せば、聖書の言葉が聞き入れられるのは、自分の権威の高さによるという思い違いが見え隠れしています。聖書の言葉が聞き入れられなければならないのは、決してそれを解き明かす人の権威によるのではなく、聖書の言葉が神の権威を持ったものだからです。そういう意味で、若いからという理由で軽んじられてはならないし、御言葉の宣教者として立てられた自分を軽んじてもなりません。

 けれども、どんなに聖書の御言葉が正しいとしても、それを解き明かす人の品格が伴わないとすれば、聞く人にとって、そのことが躓きとなり妨げとなることがあります。教えていることは正しいけれども、その人の生活や行いが、その教えている内容を裏切っているとすれば、誰もその人の言うことを聞こうとしないのは、何もキリスト教会に限ったことではありません。

 そういう意味で、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」と語った後で、すかさず「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」と勧めています。

 若い人が、老練の経験者と同じであるはずはありません。しかし、そのことを言い訳に、群れを正しく導くことができないことを、仕方のないこととしてはなりません。むしろ、「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範」となることが求められています。

 パウロはしばしば書簡の中で、「わたしに倣うものとなりなさい」と勧めています。もちろん、パウロの模範の原点はイエス・キリストにあります。それと同じように、福音の宣教者として、若いテモテにもキリストに倣い、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で信仰者の模範となることが求められています。それは、キリストご自身のように完璧なものでないかもしれません。肝心なことは、模範となろうとする姿勢です。

 パウロは自分がテモテの所へ行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念するようにテモテに命じています。それは群れを委ねられた者にとって、なすべき務めということでしょう。また、実際に当時の教会の中で普通に行われていたことと思われます。

 パウロはテモテに対して、特別なことを命じているわけではありません。むしろ、普段と変わらないことを継続して行うことの大切さを思い起こさせています。

 教会に何か特別な問題や試練が襲った時、問題解決のために今までと違うことをしようと思うことがあります。もちろん、そのことを否定はしません。しかし、教会の営みの本質に代えて、何か新しいことをしようとするのであれば、それは道を誤らせてしまいます。むしろ、聖書の言葉にいっそう耳を傾け、その教えに耳をかたむけることこそ大切です。

 テモテが直面している教会の状況は、様々な間違った教えを説く人々が出現しつつある状況です。そうであればこそ、聖書の御言葉に聞く信仰の営みは欠かすことができません。

 さらに、パウロはテモテに対して、あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはならないことを命じています。

 このことは、若いからといって人から軽んじられてはならない、という言葉と密接に関係しています。というのも、人は自分に与えられている賜物に気がつきにくいものです。とくに若い時には、自分が持っていない他人の才能に目を奪われがちです。人と比較して、自分の賜物に引けを感じてしまうことすらあります。自分に与えられた賜物の豊かさに気がつかず、与えられた賜物を自分で軽んじているとすれば、一体だれがその人を重んじてくれるでしょうか。

 テモテは教会での働きを受けたときに、長老たちから手を置いてもらい、働きに必要な聖霊の賜物が豊かに与えられたことが示されました。そのことを信じ、与えられた賜物を重んじて豊かに用いるとき、神からも人からも信頼される働き人となることができるのです。

 パウロは、そのようにしてテモテが成長し、教会で豊かに用いられることを願っています。

 このことは、教会員一人一人にとっても当てはめて考えることができます。一人一人には聖霊の豊かな賜物が与えられています。そのことを信じて、与えられた才能をもって仕えるときに、信仰者として豊かに成長し、進歩することができるのです。