2019年10月24日(木) 正しく見える間違った教え(1テモテ4:1-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「良いことをしたら必ず報われる」という考えは、人間誰もが素朴に持っている感覚であるように思います。そして、その反対に「悪いことをしたら、必ず自分に帰ってくる」という考えも、ある程度誰もが共有している感覚であるように思います。
ただし、良いことをプラス、悪いことをマイナスと考えて、どの程度プラス方向に針が振れたときに救われると思うのかは、人によってその感覚は千差万別であるように思います。たとえば、芥川龍之介の作品『蜘蛛の糸』では、主人公のカンダタは、殺人から放火に大泥棒を働いた男でしたが、たった一度だけ踏みかけて殺しそうなった蜘蛛を助けたことがありました。そのことがお釈迦様の心に留まって、地獄から極楽へと引き上げられるきっかけとなりました。単純にプラスとマイナスの帳尻だけでいえば、ゼロよりもずっとマイナスの方向にいたカンダタですが、過去に一度だけでもプラスの方向に心が動いたということが、救われるきっかけとなったというのです。もっとも、『蜘蛛の糸』全体としては、結局、お釈迦様の慈悲の心を無にして、他人に無慈悲に振舞ったカンダタは、再び地獄に落ちてしまうという結末です。
では、キリスト教はどうかというと、人の心がプラスに傾くどころか、人がまだ罪人であった時に、神は救い主をお遣わしになったと教えています(ローマ5:6-8)。そして、罪人に代わって、救い主ご自身が救いに必要なプラスの行いをすべて成し遂げたので、人はそのことを信じて救い主により頼むだけで救われる、という教えです(3:23-26)。
しかし、こんなにも単純な教えが、人間の素朴な感覚からは、どうも受け入れられないようです。借金に例えていえば、1兆円の借金を帳消しにしてもらったら、それを素直に受け入れることができない感覚に似ているかもしれません。
確かにそんな莫大の借金を何の理由もなく帳消しにしてくれるなど、普通はありえない話です。けれども不思議なことに、1千万円ぐらい自分で返せば、1兆円の借金が帳消しにされても、それほどあり得ない話とは思えない感覚もまた不思議です。『蜘蛛の糸』の読者のほとんどは、たった一度だけ蜘蛛の命を助けたカンダタに対して慈悲を示されるお釈迦様の好意を憐み深いと受け入れます。ましてカンダタほど悪人ではない自分なら、借金したとしても、その金額も少ないし、すでに半分以上返済したから、救われるのも当然と思い込んで疑わない感覚もまた不思議です。不思議どころか、よくよく考えてみると図々しい話です。
しかし、善い行いによって、少しでもマイナスを減らそうと思うのであれば、まだましかもしれません。莫大な負債を抱えた人が、「わたしは一生独身を貫き通しますから、借金は帳消しにしてもらえます」とか、「わたしは火曜日と金曜日に断食したので、借金はほぼなくなったも同然です」などと言い始めたら、まったく頓珍漢な話です。人間とは不思議なもので、そうした発案をもっともらしいと受け取ってしまいがちです。いくら何でも、そんな話を人は信じないと思うかもしれません。しかし、まさにきょう取り上げようとしている個所には、そうした人間の愚かな教えに対する警告が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 4章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
しかし、”霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
今取り上げた個所には、信仰からの脱落者について記されていました。こういう個所を読むと、自分は大丈夫だろうか、と不安になってしまうかもしれません。しかし、パウロがこのことを記した理由を考えてみれば、自分の信仰についていたずらに動揺する必要はありません。
たとえば、空気の乾燥する時期は火災が発生する回数が非常に多いと言われるとき、その情報を提供する目的は、あなたの家が燃えてしまうかもしれないという不安感をあおるためではありません。そうではなく、空気が乾燥する時期には、火災が発生しないように最大限の注意を払いましょう、というのが、情報発信の目的です。
同じように、パウロの警告は、恐怖心や不安感を与えることが目的ではありません。特にこの手紙は、若いテモテに対して、教会をより良く導くための知識を伝達することが目的ですから、目指すところは、教会に集う一人ひとりが、間違った教えに引きずり込まれてしまわないことです。
将来起こるべき現実を前もって告げておくことで、ふいに起こった予想外の出来事のように、慌てふためくことがないようにと、パウロはテモテの注意を喚起しています。おそらくここで語られていることは、遠い将来のことではなく、すでにその萌芽を感じ取ることができる事柄だったのでしょう。
パウロは、偽りの教えの根本にどんな問題点が横たわっているのかをまず指摘します。個々の間違った教えに共通していることは、「偽善」であるとパウロは言います。そう語った後で、偽った教えを伝える者が、具体的にどんなことをなぜ教えるのか、パウロは続けてこう記しています。
「彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします」
「焼き印を押される」という表現は、誰のものであるのかを示すしるしです。言うまでもなく、惑わす霊と悪霊どものものとされた者たちが、もはや完全に自分の考えも良心も明け渡してしまった状態です。今風に言えば、その心がブランドに支配されることで、偽りの教えをまるで高級品のように思い込んでしまう状態です。焼き印を押された者たちにとって、その教えが本物と見えてしまうからです。
しかし、ここで言われている具体的な偽りの教え、つまり結婚を禁じたり、ある種の食べ物を取らないということは、見掛け倒しの善にすぎないということです。
イエス・キリストが伝えた福音は、救いのためにキリストにのみ全幅の信頼を寄せることでした。しかし、自己満足を求める心には、何かしかの苦行が功績をもたらし、善でも何でもないことが、価値あることのように見えてきてしまうのです。まさに、そこにこそ、偽りの教えのわながあるのです。
禁欲的な生き方は、一見素晴らしいように見えます。しかし、神が清いと定めたものを遠ざけることは、決して神の意に沿った生き方ではありません。結婚は神が定めた制度であり、食べ物も感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはない、というのが神のお考えです。
キリストの福音に従って生きることは、見せかけの功績や禁欲主義から私たちを解放して、自由に生きる道を開いてくれます。その道を捨てることほど、愚かなことはありません。