2019年9月26日(木) ここで求められていることは何か(1テモテ2:8-15)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書の中には、読んですぐに理解できる個所と、そうでない個所とがあります。あるいは、言葉や文章自体は簡単に理解できても、書かれてある通りに理解すると、聖書の他の個所の教えと整合性が取れなくなったりする個所があります。2千年も時間が経てば、言葉の使われ方が違ってきますし、それが語られた状況が全く分からないために、頓珍漢な解釈がまかり通ることもあります。
例えば、今から2千年後に『止まれ』と書いた道路標識が発見されたとします。その時代の人たちは2千年前の交通事情など知る由もありません。まして、発見されたものが道路標識であるかさえもわかりません。もしかしたら、その時代には道路や自動車そのものがないかもしれません。そんな状況の中で『止まれ』が何を意味するか、そのことを議論し始めたとしたら、それはきっと今の時代の人間からすれば、滑稽な議論になると思います。
ある人はこう主張するでしょう。『止まれ』と書いてある以上、それはいかなる人も、いかなる場合もここでずっと止まることが義務づけられていたにちがいない、と。
それに対して別な人はこう主張するでしょう。ずっと止まれなどと命じることは、非人間的な命令であり、常識から考えてあり得ない。ここでの意味は、何かの必要があって一旦停止することが求められているにすぎない、と。
さらに別な人はこう主張するでしょう。ここでいう『止まれ』とは、物理的な動作ではなく、内面の邪悪な思考を停止せよ、ということに違いない。おそらく、防犯の理由から、このような標識が街のあちこちに設置されたのだろう、と。
こうした議論は、その時代の文脈を無視した理解に基づくもので、どの議論もそうした標識がその時代に生まれた理由を知らないために起る議論です。
単なる議論であれば、どうでもいいことですが、2千年後の人々が、この標識を我々の時代にも活用しようと主張し始め、この標識があるところでは、絶対に動いてはいけない、などと言い始めたら、大変なことです。
実は同じ間違いは聖書を理解するうえでも起こりえます。どんなに言葉の意味や文法が単純であったとしても、そこから引き出される解釈や適用が正しいとは限りません。そのために、聖書から信仰に関わる内容を引き出すときには、聖書全体の教えと矛盾しないか、あるいは、他にも同じことを明白に教えてる個所があるか、そういう判断が必要になってきます。
実はきょう取り上げる個所は、まさにそうした議論の渦中にある箇所といってもよい個所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 2章8節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
ここに書かれていることは、特に難しい単語があるわけではありません。読んでそのままのままに理解すれば、それで済むように思われます。しかし、ほんとうにそんなに単純でしょうか。
まず、ここでは「男」と「婦人」に関して、それぞれ望まれる姿が描かれます。
2章の1節から7節までの内容は、特別な偏見を持たずに読めば、「願いと祈りと執り成しと感謝」を捧げる主体は、男性だけに限られているというわけではありません。男性も女性も祈る中で、8節では特に男性に対して「怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」が求められています。では、祈ることに関して、女性には「怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」が求められていないということでしょうか。それとも、怒ったり争ったりすることは、男性全般の特徴ということなのでしょうか。もちろん箴言27章15節にある通り、女性にも争う心はあります。テモテが生きたの時代の男性たちが、怒りっぽく争い好きだったと一般に思われていたというのであれば、このような勧めの言葉が男性に対して言われる理由が理解できます、あるいは、その当時の一般的な男性の話ではなく、テモテが指導している教会の特殊な状況の中に怒ったり争ったりする男性が多かったから、という可能性もなくはありません。
同じことは婦人たちに対する要望についても言うことができます。「慎み」も「貞淑」も女性固有の事柄ではありません。もちろん「貞淑」という日本語は女性について使う言葉ですが、「貞淑」と訳されたギリシア語の「ソーフロスネー」という言葉は、判断が正しいことや自制心があること、品位があること、貞節があることなど、女性に限った特徴ではありません。何故、ここで婦人たちに対してだけ、そのようなことが求められているのでしょうか。二つの可能性しか考えられません、それは、その当時、普通に婦人たちに期待されていたことであったか、あるいは、婦人一般に対してではなく、テモテが任されていた教会の婦人たちが、たまたま特別に慎みに欠け、品位がなかったからという可能性も考えられます。
もし、ここで言われていることが、時代や地域を超えて普遍的な教えであるとするなら、「髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたり」することを禁じる命令も、文字通りに普遍的と考えなければならなくなるでしょう。しかし、実際には、現代の教会の中で髪を編むことが禁じられたり、金の結婚指輪やアクセサリを身につけることが禁じられたりすることはありません。ほとんどの人は、その時代の感覚で受け入れられるものは受け入れ、そうでないものは敢えて取り入れない、という立場を正しいと考えて、この個所を解釈しています。
ところが、12節に関しては、教会を二分する議論があります。そこにはこう書かれています。
「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」
この言葉が、時代や場所に関わりなく、普遍的教えであるとするならば、女性が牧師になることは禁止されていることになります。キリスト教会を支配してきた長年の解釈はそうでした。
しかし、ここに至るまでに述べてきたことがらが、その時代を支配してきた一般的な男女観にもとづく教えであるか、あるいは、特殊な状況の中での勧めの言葉であると理解するのであれば、この言葉だけを取り立てて普遍化するのは無理がある、ということです。
果たして、どちらの読み方が正しいのでしょうか。番組の冒頭で挙げた例を心にとめて、どの立場に立つとしても、自分にとって好みの結論を出そうとするのではなく、真摯にこの言葉に向き合う必要を感じます。それが、聖書に立つ教会の使命であると思います。