2019年9月12日(木) 信仰の戦い(1テモテ1:18-20)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本語の「たたかう」という言葉は、もともと「たたく」という言葉に由来しているそうです。文字通りに考えれば「たたく」というのは穏やかな話ではありません。たたくのには、よほどの理由があるべきはずです。

 もっとも、本来の意味は暴力を連想させるものがあるとしても、「たたかう」という言葉は、比ゆ的な意味でも用いられます。例えば、「病気とたたかう」という場合は、文字通りの暴力的なたたかいとは違います。あるいは「社会的弱者の人権を守るためにたたかう」という場合にも、一般的には言論や啓蒙活動を通してたたかうという意味です。

 キリスト教「信仰」についても、しばしば、「たたかい」のイメージで描かれることがあります。もちろん、文字通りの意味ではありません。しかし、信仰の戦いとはいっても、戦う相手や方法を間違えれば、悲惨な事態が起こりかねません。

 きょう取り上げようとしている箇所にも「信仰的な戦い」について言及されていますが、注意深く読む必要を感じます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 1章18節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。

 きょうの個所は、「この命令をあなたに与えます」という言葉で始まっています。「この命令」が何を指しているのか、必ずしも明瞭ではありません。新共同訳聖書を読む限りでは、「雄々しく戦いなさい」というのが、その命令の内容に聞こえます。

 しかし、ここはむしろ、「雄々しく戦え」と言っているのではなく。テモテについて以前預言されたことに従った命令であるがゆえに、その預言に聞き従うことによって、立派に戦うことができる、と訳した方が正確であるように思います。

 つまり、ここでパウロがいう「命令」とは、パウロの個人的な思いから出た命令ではない、という点がポイントです。しかも、ここで使われている「預言」という言葉は、たった一回の預言ではありません。複数形で表現されていますから、何度も預言されてきたことです。何かの勘違いで、たまたまそう思った、というのとは違います。

 預言というのは、聖書の中では、単に未来についての告知ではありません。神から預かった言葉という意味で、その語られる内容には耳を傾けなければなりません。まして一度ならず神から与えられた言葉であれば、なおさら耳を傾けて従うことが大切です。そうすれば、信仰の戦いを立派に戦うことができる、とパウロは確信しています。

 パウロは、この手紙の冒頭で、テモテにエフェソの地に留まることを願いました。それは異なる教えや無益な議論に没頭している人々に、そのような無益な議論に夢中にならないようにと命じさせるためでした。

 このような任務は、決して簡単なことではありません。「やめなさい」と言って簡単にやめてくれるようなことがらであれば、おそらく、そのような教えに最初から人々が虜になったりはしなかったでしょう。ある意味、人を夢中にさせる教えであるからこそ、対応にも注意が必要です。

 ここに至るまで、パウロはたくさんのヒントを語ってきました。まず、テモテに対するパウロのこの命令の目的が、「愛を目指すもの」であることをパウロは語りました(1:5)。この目的を忘れて、異なる教えをやめさせることだけに躍起になれば、群れの対立は深まり、教会が分裂してしまう恐れも出てくるでしょう。愛のないところには、問題の解決も克服もありません。何を目指しているのか、そのことを絶えず意識する必要があります。

 また、パウロはここに至るまでに、「福音との一致」という点を指摘しました(1:11)。どんな教えであっても、伝えられた福音から外れているものは、教会の中に持ち込まれてはなりません。人間的な興味や関心は、留まるところがありません。もちろん、それらをすべて否定することはできません。しかし、教会の中でそれらが扱われるときには、いつも福音との整合性が失われないように気を付けなければなりません。

 では、パウロの福音の理解はどういうものだったのでしょうか。それは、前回取り上げた個所に簡単な言葉でこう記されています。

 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です(1:15)。

 パウロは、自分自身も、またテモテ自身も、何か偉い者のように人に指図するつもりはありません。むしろ、神のみ前に罪赦された者として、この福音が正しく伝えられ受け止められることを心から望んでいます。

 パウロは、神がテモテについて語った預言、しかも一度ならず語られた神の預言の言葉にテモテを委ねています。この預言の言葉に留まり、正しい良心と信仰をもって戦うときに、立派に戦うことができることをパウロは確信しています。その預言が具体的にどんな内容であったのかは記されていません。大切なことは、誰の言葉に身を委ねて戦うのか、ということです。

 パウロはかつてエフェソを去るときに、エフェソの長老たちを集めてこう言いました。

 「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(使徒言行録20:32)。

 このように、パウロはテモテに対して、慎重にそして丁寧に、なすべき務めを伝えました。その上で、パウロは厳しい現実を具体的な個人名を挙げて伝えます。

 ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました(1:19-20)。

 「サタンに引き渡す」という表現は、とても厳しい処置のように感じるかもしれません。確かに厳しい内容であることには違いありません。ただ、彼らの意思に反して無理やりサタンに引き渡した、という意味ではないでしょう。だれでも、救われる前は、神に敵対する勢力の中で生きていました。救われて福音の中に生かされた者が、再び福音からそれていくとき、彼らの居場所は、もとの場所以外にはありません。そういう意味でサタンに引き渡されたのです。しかし、それは永久的な意味ではありません。この地上にある限り、神の御前には救いの門が開かれ、悔い改めて立ち返る機会は残されています。回復することを祈りながら、決断する痛みもテモテには求められています。