2019年9月5日(木) キリストの憐みだけがわたしを強くする(1テモテ1:12-17)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分の落ち度で誰かに大きな損害を与えてしまったとき、どうふるまうか、三つのパターンがあるように思われます。一つ目のパターンは、素直に自分の非を認めて赦しを請うことです。しかし、自分が悪いとわかっていても、素直に謝ったり赦しを請うたりすることは中々できないものです。言い訳をして、少しでも自分の落ち度を小さくしようとしたり、あるいは、きっと赦してはもらえないだろうと謝るチャンスを先延ばしにしてしまったりしてしまいます。
二つ目のパターンは、相手に与えた損害を自分で償おうとすることです。もちろん、償うことのできるものであれば、そうするのが一番です。しかし、事と場合によっては、償うことすらできない損害もあります。その場合には、後悔と絶望しかありません。
三つ目のパターンは、自分のしたことがバレないように逃げ隠れすることです。しかし、生涯逃げ通せたとしても、心には平安がありません。
キリスト教が描く罪人である人間の姿は、この三つのどれかであるように思います。
しかし、その罪人に対する神の態度は、予想外のものでした。もちろん、すべてをご存じである神の前に、自分の罪を隠し通すことなどできません。しかし、すべてをご存じの上で、損害の賠償を神ご自身で償い、おまけにこちらが一言も発しないうちから、まるで久しぶりに帰ってきた実の子を迎えるように、迎え入れてくださいます。
イエス・キリストが話してくださった放蕩息子のたとえ話は、まさにそのことを示しています。父である神のお心は、子どもが家に帰ってきて、不安や怯えから解放されて、のびのびと生きることです。すべてをご存じの神が赦してくださり、わたしたちから何の賠償をも求めないのですから、これほど大きな慰めはありません。
そのことを身をもって体験したパウロの福音宣教の原点はここにあります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 1章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
きょう取り上げた個所には、パウロの個人的な歴史が語られています。それは使徒言行録に記されている事柄とほぼ一致する内容です。つまり、神に敵対し、キリスト教会の迫害者であったパウロが、今や確信をもって福音を宣教する者に変えられているという事実です。
この一連の文章の中に貫かれているパウロの思いは、キリストの憐みに対する感謝の気持ちです。もし、パウロの心を動かしている何かがあるとすれば、それば間違いなく神の憐みへの感謝です。
そのことは、すべてのクリスチャンに共通した思いといってもよいでしょう。イエス・キリストによって示された神の愛への応答こそが、クリスチャンを動かしている原動力です。
パウロは「信仰によるまことの子テモテ」(1テモテ1:2)に対して、この大切な点を最初に思い起こさせています。というのも、信徒の群れに仕える者として、このことは決して忘れてはならないからです。
教会に仕える者も、またそこに集う者も、共にイエス・キリストの憐みによって罪赦され、キリストの交わりに加えられた者たちです。互いに支配したり、隷属したりする関係ではありません。そうではなく、キリストの愛にとどまり、キリストの愛に応えて生きるようにと召された者たちです。
群れを委ねられた者たちが、そのことを忘れてふるまうときに、キリストの体である教会は機能しなくなってしまいます。
パウロが、ここで、神の憐れみに対する感謝を最初に述べていることは、この書簡にとってとても大きな意味があることです。
パウロは「憐みを受けた」ということを、短い文章の中で、二度繰り返して述べています。そのことは、「神の憐み」の理解がどれほど重要なことがらであるかを物語っています。パウロは今の務めに自分がついているのは、決して自分が忠実な人間であるから、とか、あるいは、かつての自分は何もわからなかったからしかたがなかった、とか、そういうことを言いたいわけではありません。ただ、神の憐みのゆえに、今の務めについているということ、そこに群れを委ねられた者の務めの原点があります。
ところで、パウロは、自分の務めについて語るとき、「ディアコニア」という言葉を使って表現しています。もともとの意味は「僕が食卓での給仕をすること」を意味する言葉です。務めを現す言葉はいろいろある中で、あえてこの言葉を選んで使っているところに注意を払う必要があります。
この言葉は使徒言行録6章に登場する言葉ですが、そこでは、エルサレムの教会で起こった食事の分配をめぐるトラブルが記されています。使徒たちは、その問題を処理させるために知恵のある7名を選んで、食事の分配の世話(ディアコニア)をさせました。その務めは文字通りディアコニアと呼ぶにふさわしいものでした。しかし、食事の分配のことで心を煩わせることから解放された使徒たちは、自分の働きを「み言葉の奉仕(ディアコニア)」と呼んでいます(使徒言行録6:4)。食卓の世話ではありませんが、しかし、自分たちの務めをディアコニアと理解していた点では共通しています。
実はギリシア語の「ディアコニア」はラテン語で「ミニステリウム」と訳され、それが英語になってミニストリーと呼ばれるようになりました。ミニストリーは支配することではなく、仕えること、奉仕することです。それも、神の忍耐と憐みのゆえに罪を赦された者が、他者に仕えるjことです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します(1テモテ1:15)。
その言葉をしっかりと心にとめて、信徒に仕える者となることを、パウロはテモテに期待しています。