2019年8月29日(木) 健全な教えは愛に根差す(1テモテ1:3-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 パウロはコリントの信徒に宛てた手紙の中で、「サタンでさえ光の天使を装うのです」と書きました(2コリント11:14)。クリスチャンにとっても教会にとっても、一番手ごわいのは、「もっともらしさ」という詭弁です。

 悪意が露骨に出ているものには、だれでも警戒します。明らかに間違っているものをわざわざ教会の中に持ち込んだり、同調したりする人はいません。教会を揺るがすものは、たいていもっともらしく、正しいように見えることです。それを持ち込む本人でさえ、それが間違っている教えだと気がついてはいません。「サタンでさえ光の天使を装う」とはまさにそういうことであると思います。

 先週からテモテに宛てた手紙から学んでいますが、不健全な教え、異なる教えに対する警戒が、まず説かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 1章3節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。

 最初にパウロがテモテに命じていることは、エフェソにとどまって、異なる教えを説く者たちに対して適切な対処を講じるためでした。

 パウロがエフェソで本格的な伝道したのは、使徒言行録の19章によれば、三度目の伝道旅行の時でした。新約時代のエフェソは商業都市として栄え、また女神アルテミスの神殿があることでも有名でした。パウロはここで3年にわたって伝道しました(使徒言行録20:31)。

 福音がこの地で急速に受け入れられる一方で、アルテミスの神殿を信奉する人たちとの対立で、パウロやその仲間たちは命の危険にさらされる経験をしました。その後パウロは、エフェソからマケドニアに向けて出発しますが、それは丁度コリント教会の問題を抱えていて、腰を据えて問題の解決に当たらなければならない時期でもありました(1コリント4:18-21、11:34、16:5-9)。ただ、その時には、テモテを先にコリントへ遣わしていますから、この手紙の状況とは異なります。この手紙が示している状況は、パウロが先にマケドニアに向けて旅立ち、テモテが残ってパウロの命令を実行しようとしている状況です。

 テモテの手に委ねた異なる教えを説く人たちは、教会の外にある問題ではなく、内部に起こった問題のようです。パウロが第三回の伝道旅行を終えてエフェソを立ち去るときには、まだ起こっていない問題のように思われます。パウロはミレトスにエフェソの長老たちを集めて別れの挨拶をしていますが、その挨拶の中で、やがて教会を襲う問題について、こう述べています。

 「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(使徒言行録20:29-30)。

 そういう危険はどの時代の教会にも起こりうることですが、このテモテへの手紙が書かれた時代の教会も、まさにそういう危険に直面していました。

 パウロはこのとき起っている問題を「異なる教え」と呼んでいます。

 では、彼らが陥っていた「異なる教え」の具体的な内容はどういうものだったのでしょうか。その全体像や詳細をパウロは述べていません。ただ、それが系図に関する思弁的なとりとめもない教えであることは明白です。それらの教えの行きつく先は、救いの実現とはかけ離れた「無意味な詮索」「無益な議論」である、とパウロはこの教えの本質を指摘します。それでありながら、そんな教えに没頭する人たちは「律法の教師でありたい」と思っているのですから、教会に与える悪影響は計り知れません。

 明らかに間違った教えであれば、誰からも見向きもされないことでしょう。おそらくは、もっともらしい話で、興味をそそるような心奪われる説明が加えられるのでしょう。しかし、どんなに魅力的で新鮮な教えであったとしても、救いの実現に少しも関わるところがなければ、全く無意味な話しにすぎません。どんなに人の好奇心を満足させる話であったとしても、それは、福音とは無関係です。

 さらに、パウロはテモテに与えた自分の命令について、それは「愛を目指すもの」であることを強調しています。

 確かに、愛はあらゆる事柄の中心にあるべきものです。「愛がなければ、無に等しい」とパウロは別の手紙の中で語っているとおりです(1コリント13:2)。パウロが異なる教えにはまっている人たちの名前を敢えてあげないで、「ある人たち」と漠然と呼んでいるのも、そうした思いが込められているのかもしれません。議論のための議論に明け暮れないで、もっと福音の本質に触れることを願うパウロの心の表れです。

 8節以下で、パウロは律法についての見解を述べていますが、それは、異なる教えを説く者たちが、「自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたい」と思っていることに対してです。パウロはここで、律法そのものを否定しません。むしろ健全な教えに反するならば、律法がそのことを明らかにしてくれます。律法は違反を違反として示す最高の鏡であり、果たすべき義務を明確に示しています。もちろん、果たすべき義務を示され、違反を明らかに指摘されることと、律法に従って実際に歩むこととは、けっして同じことではありません。そのことにすら気がつかず、自分の罪に無頓着であるとするなら、律法の教師であることすらできません。いえ、福音の理解にとってさえも妨げとなります。

 パウロの願いは、教会が救いの歴史を健全に理解し、福音の理解を深めて福音に生きることです。