2019年8月15日(木) 復活の驚き(マルコ16:1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
およそ2年間にわたって学んできたマルコによる福音書の学びも、きょうで最後になります。その最後を締めくくる章はイエス・キリストの復活を記すクライマックスとなる場面です。マルコ福音書がどんな風に福音書を閉じているのかとても興味のあるところです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 16章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
さて、きょうで最後となるマルコによる福音書の学びですが、今お読みした聖書をお聞きになって、ちょっと不思議な印象をお持ちになったのではないかと思います。というのは、この福音書の結びの言葉が「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という終わり方で、なんとも中途半端だからです。
実はいくつかの翻訳聖書を読み比べてみると、マルコによる福音書の結びの部分が違っているのに気がつかれると思います。その違いは、その翻訳に使ったギリシャ語新約聖書のテキストがどんな写本に依存しているかということによります。この「聖書を開こう」の学びで使用している新共同訳聖書では、三つのパターンを紹介しています。その一つは、今読んだように8節で突然終わっているものです。二番めのパターンは8節のあとに、11節からなる長い結の部分が続くものです。三番目のパターンは8節の後に短い結びを加えるものです。写本による細かな違いを挙げれば、この他にもいくつかの結び方があるようですが、大雑把に言って、三つのパターンが代表的なマルコによる福音書の終わり方です。
さて、もともと聖書が書かれたテキストを可能な限り復元する学問を聖書本文学と呼びます。その本文学を研究する学者たちの意見では、長い結びの言葉も、短い結びの言葉も、どちらも、本来の結びの言葉ではなかったということです。それらを記した写本の質の問題から考えても、どれもこれも、後から書き加えられたことは明らかです。そして、このような加筆が行われた動機も簡単に説明がつきます。それは、先ほども見たように、福音書を結ぶにはあまりにも不自然な終わり方で終わっているからです。いったい、救いの希望に満ちた福音書を「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と言う言葉で結ぶ人がいるでしょうか。
そこで、ほとんどの聖書学者は、マルコによる福音書が16章8節で終わると考えることは不自然だと考えます。つまり、この福音書は未完成に終わってしまったのか、はたまた完成はしたものの、最後のページが破れて行方不明になってしまったのか、そのどちらかだと考えられています。最後の部分が行方不明になってしまったのだとしたら、それは他の写本が出回る相当前のことで、マタイやルカなど他の福音書記者すらもマルコ福音書の正しい終わり方を知らなかったと考えられます。
しかしまた、この不自然な終わり方こそ、マルコによる福音書の意図的な終わりかただと考える人もいます。その点についてはまた後で述べることにして、マルコによる福音書が記す復活の日の出来事についてご一緒に見ていきたいと思います。
16章の1節は、安息日があけたところから話を再開します。イエス・キリストが十字架上で息を引き取ったのは安息日が始まる直前の出来事でしたが、安息日のことは丸1日福音書には記されていません。日没になって安息日があけるや否や、キリストの葬りを完成させるために、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人の婦人たちが香料を買い求めたことが記されます。そして、一晩明けた朝早くに、日の出を待ちわびて、さっそくイエス・キリストを葬った墓を訪れます。
この時点では、この婦人たちはイエス・キリストを葬った墓がどうなっているのか、予想もしていませんでした。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたのです。
ところが、墓に到着してみると、簡単に動くはずのない石が脇へ転がしてあるのを目撃しました。この時点でも墓を訪れた婦人たちには、イエスが甦られたというような思いは少しもありませんでした。墓に入ってみると、白い長い衣を着た若者が座っているのが見えたので、婦人たちは初めてひどく驚きます。その驚きが何の驚きかは記されていません。いるはずのない若者に驚いたのか、その風貌がおよそこの世のものとは思えないほどまばゆく感じられたからなのか、はたまた、横たわっているはずのキリストの遺体が見当たらなかったからなのか、驚いた理由は記されていません。
いずれにしても、あるべきところにイエス・キリストの遺体がないことに、婦人たちはすぐに気がついたことでしょう。遺体がないという事実には色々な説明が可能です。誰かが持ち去ったのかもしれません。それは嫌がらせのためかもしれませんし、また、自分たちよりも早くイエス・キリストの埋葬を完成させるために、遺体を誰かが持ち出したのかもしれません。あるいは死んだはずのイエス・キリストが蘇生したのかもしれません。
しかし、どの説明をも打ち消すように、白い衣の若者が告げます。
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコによる福音書にとって、イエス・キリストが復活したことを明らかにするのは、空の墓の事実ではなく、この白い衣の若者の言葉なのです。マルコによる福音書には他の福音書のように、復活のキリストに弟子たちが出会ったことは一切記されません。「あの方は復活なさった」というこの言葉によるお告げこそが重要な意味を持っています。
しかし、この言葉を聞いた婦人たちは、ただただ驚愕するばかりでした。正気を失うほど、震え上がります。十字架の上で死んでいくイエスをじっと見守った冷静な婦人たちとは思えないような慌てふためき方です。
思うに、人類にとって初めて体験するキリストの復活は、言語を絶するような驚きとしてしか表現できないのでしょう。そう思うと、マルコによる福音書の結びは、決して中途半端な終わり方ではありません、むしろ、言葉では簡単に言い表すことができない復活のリアリティを物語っているのではないでしょうか。