2019年7月18日(木) 侮辱された王(マルコ15:16-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会の信仰を言い表した言葉に「使徒信条」と呼ばれる古くからの有名な信仰告白があります。その信仰告白の中で、神の御子、主イエス・キリストは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」といわれています。普通に考えれば、苦しみと十字架は救いとは無縁のような気がします。打ち叩かれて、十字架の上で犯罪人の一人として死んでいった者を救い主だと考えることは、世の常識から言えばありえないことです。しかし、神の救いのご計画には、このキリストの苦しみと十字架は欠くことのできない要素として記されています。なぜなら、このキリストの苦しみと十字架はイエス一人のものではなく、わたしたちこそが受けるべき罪の罰を、身代わりとなって引き受けてくださった苦しみにほかならないからです。世々のキリスト教会は聖書から教えられてそのように信じ告白してきました。
きょうは十字架刑へと引き渡されるイエス・キリストの苦難から学んでいきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 15章16節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
先週はポンティオ・ピラトの下で十字架刑の判決が言い渡された場面を学びました。それは、決して公平な裁判ではありませんでした。民衆の声に押し切られ、民衆の心を満足させるための判決に過ぎませんでした。しかし、そのようなむごい判決の中にも神の隠れた救いの計画が働いていたのです。
十字架につけるためにピラトのもとから引き渡されたキリストを、兵士たちは総督官邸の中に引いていきます。これがきょうの場面です。
この総督官邸というのは、過越の祭りの間だけ、エルサレムの治安を確保するためにエルサレムの中に置かれたものでした。その正確な場所については、ヘロデの宮廷であったのか、あるいはアントニアの塔がある場所にあったのかはっきりとは分かっていません。
兵士たちがイエス・キリストを官邸の中に引いていったというのは、判決の言い渡しが官邸の外で行われたことを暗示しています。
さて官邸の中にキリストを連れて行ってから、部隊の全員が召集されたとあります。ここで使われる「部隊」という言葉はローマの軍隊組織の中の6百人からなる軍団をさす言葉です。もし、たった1人の男を6百人の兵隊の前でなぶり者にしたとすると、それはそれで大変な屈辱的な場面です。しかし、ここでの意味はいわゆるローマの軍隊組織でいう6百人の部隊というほど厳密なものではないでしょう。祭の期間中にピラトとともにエルサレムに駐留したカイザリアの歩兵部隊の一部であっただろうと考えられています。いずれにしても相当な数の兵卒の前で浴びせられた侮辱の数々は筆舌に尽くしがたいものがあります。
ユダヤ人の王として処刑されようとするイエス・キリストに対して、王として受ける最大限の栄誉を、兵卒たちは最も皮肉な形で与えようとします。
イエス・キリストに着せた服は、王の気高さと尊厳をあらわす紫の色です。しかし、それはイエス・キリストのためにわざわざあつらえたものではありません。兵士が身に纏っていた外套で間に合わせたものに過ぎません。王の頭に戴かせるにふさわしい王冠は、その辺に生えていた茨で間に合わせに作った冠でした。徹夜明けの裁判で、おまけに鞭打たれた後でフラフラになっていたキリストには、ただでさえ王の尊厳など見られるはずもありません。それにもかかわらず、兵隊たちはそれを弄ぶかのように紫の衣に茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼までしはじめました。
さらにイエス・キリストを侮辱する彼らの態度はますますエスカレートします。王の笏に代わって、葦の棒でキリストの頭を叩き、王に対する尊敬の口づけに代わって、つばきをかけ始めました。これだけなぶり者にした挙句、戯れにイエス・キリストの前に跪いてキリストを拝んだりもします。
それは、ただ単に暴行を加えられるという以上に屈辱的で耐えがたいものであったに違いありません。
しかし、イエス・キリストにとっては、これらすべてのことは予想もしなかったことではありませんでした。すでに弟子たちには密かにご自分の身の上に起ることをお告げになっていました。
「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」(10:33-34)
このようなことがご自分の身の上に起ること、そして、それがメシアとしてのご自分の使命であることを、イエス・キリストはご存知だったのです。そのことについては、ゲツセマネの園で血が滴るような汗を流して父なる神にも祈りました。しかし、今はその与えられたメシアとしての使命をご自分の身に引き受けて、誰もが不思議に思うほど、黙々とこの苦難を耐えていらっしゃいます。
わたしはイエス・キリストの生涯を描いた映画を今までに何本も見て来ました。そして、どの映画もその生涯のクライマックスとも言うべき受難の場面を生々しく描いています。中庭で鳴り響く鞭の音。その度に顔を歪めるキリストの姿。あざけりながら茨の冠を被せるローマ兵に、頭から血を流すキリスト。目を背けたくなるような場面をこれでもかこれでもかと描きます。
しかし、福音書の記事は不思議なほどに、イエス・キリストの崩れ落ちる姿も、苦痛で口から漏れる声も描きません。兵隊たちのむごい行為を淡々と描くだけです。それだけに、そこに現れた人間のむごたらしさ、罪の深さが際立っています。また、イエス・キリストの沈黙の中に、救い主として遣わされたご自分の使命を最後まで受け止めるキリストの姿が際立っています。
このイエス・キリストの沈黙の中に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と語るイエス・キリストの言葉が響いてくるような気がします。