2019年7月4日(木) 沈黙を守るキリスト(マルコ15:1-5)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストを処刑しようとする裁判の争点が、いったいどこにあるのか、いったいこの裁判で何が争われているのか、どうも釈然としない思いが、この受難物語を読むたびに残ります。

 しかし、この受難物語を裁判記事としてではなく、いかにイエス・キリストが定められた方法で十字架におかかりになり、救いを成し遂げられたのか、という観点から読むと、非常にはっきりとした神の救いの計画を読み取ることができると思います。

 キリストの受難記事を読むのは、結局、人間が展開する事件の中に、いかに神の救いの計画を読み取るかということにかかってくるのだと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 15章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

 さて、きょうお読みした場面は、今までの場面とは違い、ユダヤ最高法院での審問からローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトによる審問へと移ります。

 ヨハネによる福音書の18章31節に記されているとおり、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人には人を死刑にする権限がありませんでした。そこで、イエス・キリストを確実にそして合法的に処刑するためには、ローマ帝国から遣わされた総督に訴え出る必要がありました。しかし、これはある意味で言えばとても狡賢いやり方ともいえる方法です。

 確かに、ヨハネによる福音書に記されているとおり、ユダヤ人の自治組織であるユダヤ最高法院には死刑の権限が与えられてはいませんでした。では、ユダヤでは一切の処刑がユダヤ人の手によって行われなかったかというとそんなことは決してありませんでした。後の時代の話になりますが、最初の殉教者ステファノは、ローマの裁判手続きなしに、ユダヤ人の手によって処刑されてしまいました。

 つまり、その気になればイエス・キリストを殺すことなど、わざわざローマ人の手を借りなくとも、自分たちだけで出来たはずです。神を冒涜する者として、イエス・キリストを石で撃ち殺したとしても、ローマ人たちはそのことでユダヤ人をとがめることなどしなかったでしょう。

 しかし、ユダヤ最高法院は規定をたてに敢えてキリストをローマから派遣された総督の下に訴えでて、確実に、合法的にキリストを処刑しようとします。「最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」とは、何と用意周到なことでしょう。ローマの総督の裁判で判決をいただければ、確実にイエスを処刑することが出来ます。しかも、自分たちの手を汚すこともなければ、責任を問われることもありません。

 さて、ピラトがイエス・キリストを尋問する言葉は、「お前がユダヤ人の王なのか」ということに争点が絞られています。このやり取りからして、ユダヤ人たちがイエス・キリストを何と言って訴え出たのかが想像できます。

 彼らは、自分たちの審問ではイエスが神を冒涜する者であるという結論を得ました。しかし、世俗の裁判に訴え出るときには、別の容疑で訴え出たに違いないのです。

 それは「イエスをユダヤ人の王」、つまり、ローマ皇帝に反逆する者として訴え出たということなのです。

 いったい、どうやって訴えの論点を摩り替えたのでしょうか。それは、イエスがメシアであるという自己証言を宗教的な色合いから政治的な色合いに変更することによってです。

 ルカによる福音書には、ユダヤ人たちが総督にイエスを訴え出る言葉が、こう記されています。

 「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」

 ピラトがイエス・キリストに尋問した言葉…「お前がユダヤ人の王なのか」という問いかけは、こうした訴えが背景にあってのことです。ユダヤ最高法院の手による宗教的な裁判が、今や政治的な裁判へとすっかり変わってしまいました。それは紛れもなくキリストを殺そうとするユダヤ人たちの巧みな策略とでも言ったらよいでしょう。

 けれども、このような人間的な企みを超えたところに、神のくすしい救いのご計画が働いていることを見過ごしてはなりません。

 イエス・キリストはこの総督ピラトの質問に対して、「あなたがそう言っている」と答えるだけで、肯定とも否定とも取れるあいまいな答えをしているだけです。もし、この裁判の判決を自分に有利に導きたければ、キリストはもっと積極的に反論することが出来たはずです。自分がいかなる意味でも政治的な王としてローマ皇帝に対立しようとしているのではない、と主張できたでしょう。

 しかし、イエス・キリストはたった一言「それは、あなたが言っていることです」と答えられただけです。イエス・キリストは、ピラト自身がいぶかしく思うほど、何もお答えになりませんでした。それは、ゲツセマネの園で取り除いて欲しいと祈られた苦難の杯を、神のみ心として飲み干す決意をなしたということに他なりません。その時点で、この裁判は人間の裁判ではなく、やはり、神の御手による、救いを実現するための特別な出来事といわざるを得ません。

 ピラトが不思議に思うほどのキリストの沈黙は、決して意味のない沈黙なのではありません。神が定めた苦難の杯を飲み干し、救いの業を成し遂げようとする、イエス・キリストの、神に対する無言の服従なのです。

 その姿は、旧約聖書イザヤ書53章で預言されている苦難の僕を思わせます

 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

 このピラトによる人間の裁判の中に、くすしくも働く神の御手を読み取る人は幸いです。