2019年5月30日(木) 再び集めるために(マルコ14:27-31)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「そのとき自分だったら一体どうするだろう」といろいろ想像して思うことがあります。わたしがクリスチャンになったばかりの高校生時代には、遠藤周作の『沈黙』という小説が映画化され話題になったこともあり、再び迫害の時代がきたらどうするだろう、などとクリスチャン友達と語り合ったものでした。

 そういうことはそのときになってみなければわからないというのが正直なところかもしれません。しかし、そんな場面を想定しては、自分を過大に評価したり過少に評価したりして、傲慢になったり卑屈になったりしました。

 しかし、もしこれが誰かから「あなたは迫害にあったら、きっと逃げ出してしまうにちがいない」などといわれたら、やっきになって反論するかもしれません。

 さて、きょう学ぼうとする個所には、イエス・キリストご自身が、弟子たちの身にすぐにも起ろうとしている事柄を告げた場面が出てきます。しかも、それは困難な事件に遭遇して、逃げ出してしまう弟子の姿を予告したものでした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章27節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 イスカリオテのユダの裏切りを予告したイエス・キリストの言葉は、既に学びました。今度は弟子たちが皆、イエス・キリストを見捨てて散らされていってしまう、ということをキリストは弟子たちに告げられます、

 「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」

 イエス・キリストは、弟子たちがご自分に躓いて散らされていくのは、旧約聖書ゼカリヤ書に記されたとおりであるとお告げになります。そこに引用されているのはゼカリヤ書の13章7節の言葉です。

 「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。 羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。 わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」

 実はこの預言には続きがあります。なぜ神はご自分の同僚である羊飼いを打って、羊を散らされるのか、その理由が明らかにされます。

 それは「銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す」ためでした。残った者たちを再び集めてご自分の民とし、ご自身がその者たちの神となるためでした。この預言のポイントは、蹴散らされた神の民が姿を完全に消し去られることではなく、再び残りの者を集めて、神の民とし、ご自身が彼らの神となることを約束した預言なのです。

 その預言のように、どの弟子も皆、十字架に架けられたイエス・キリストに躓き、一度は散らされてしまいます。しかしまた、その預言の言葉のように、復活の主イエス・キリストは、弟子たちに先立ってガリラヤに行き、弟子たちと再会することを約束してくださっています。

 けれども、弟子たちの耳には、このキリストの予告の言葉は、恵みの言葉としてではなく、耳を覆いたくなるような不快な言葉と聞こえました。

 ペトロがすかさず口を開きます。

 「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」

 このペトロの自信に満ち溢れた言葉は一体どこから出てくるのでしょうか。ペトロの言葉そのものにペトロのものの考え方が出ています。ペトロは単に「わたしはつまずきません」とは言いませんでした。わざわざ、「みんながつまずいても」と言っています。自分はみんなとは違うのだといいたげです。自分はみんなよりずっとましだと思う気持ちの裏には、無意識のうちにみんなを見下す思いも見え隠れしています。この自分を過大評価する思いこそ、イエス・キリストが語っているもっと大切な恵みの言葉を聞こえなくさせてしまっています。実際、キリストがおっしゃった「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」という言葉に対しては、まるで何も聞こえなかったかのように無反応です。

 イエス・キリストはこのペトロに対して、もっと厳しい言葉を告げられます。

 「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」

 しかし、この警告の言葉もペトロにとっては、少しも役には立ちませんでした。自分の弱さを悟るどころか、かえってむきになって弁明し始めます。キリストのためなら死ぬ覚悟さえ出来ていると言い張ります。

 果たして、ペトロはこのキリストの予告どおり、自分の弱さを後に思い知ることになります。しかし、今その弱さにさえも気がついていません。

 もっとも、そんなに自分を過信していたのはペトロ一人だけではありませんでした。「皆の者も同じように言った」と聖書は記しています。

 みんなが自分は他の人よりもましだと思い、みんなが死ぬ覚悟が出来ていると思っているこの弟子団こそ、主の助けを必要としている、もっとも弱い集団だったのです。実際事が起って、彼らは自分たちの弱さ、頼りなさをいやというほど身をもって経験しました。

 もちろん、彼らが後に経験したのは、自分たちの弱さばかりではありませんでした。このか弱い自分たちを再び集めてくださる復活の主の力強さと恵みを知ることができました。

 わたしたちも、自分の強さを過信して、主の恵みの言葉を軽く受け流してしまう愚かなものです。しかし、こんなにも愚かで弱いわたしたちをも訓練して用いて下さる神の恵みがあるからこそ、わたしたちは神の御前にたつことができるのです。