2019年5月23日(木) 主の晩餐(マルコ14:22-26)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「洗礼」という言葉を聞けば、クリスチャンでない人でも、何となくそれがどういうものであるのか、イメージできると思います。しかし、「セイサン」という言葉を聞くと、クリスチャンでない人にとっては、そもそも、それがどんな漢字を使って書くのか見当もつかないかもしれません。

 わたしがまだ教会へ行き始めた頃、初めて聖餐式というものを目の当たりにして、とても不思議な気持ちがしました。もちろん、それがどんな意味を持った儀式なのか、まったく予備知識もありませんでした。ただ、どうやらそれがイエス・キリストの最後の晩餐から来ているらしいということは、見ていて分かりました。

 さて、きょう取り上げるのは、いわゆる最後の晩餐の中心的なシーンです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章22節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 いわゆるキリストの最後の晩餐とよばれる食事は、ユダヤ教の過越の祭りの食事として持たれたものでした。そういう意味では、キリストの弟子たちは、毎年行われる過越祭の食事と同じような気持ちで食事に与っていたに違いありません。しかし、イエス・キリストはこの食事の席上で、パンとぶどう酒を弟子たちに与えて、それらに特別な意味付けをされました。それが今日学ぶ個所の中心的なテーマです。

 まず、イエス・キリストはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。

「取りなさい。これはわたしの体である。」

 切り裂かれたパンを差し出されて、「取れ、これはわたしの体だ」といわれても、その場に居合わせた弟子たちには、はじめ何のことだか分からなかったことでしょう。

 後にイエス・キリストの体が十字架の上にかけられ、殺されるのを目撃した弟子たちは、あのキリストがお裂きになったパンと十字架の上で肉体を裂かれて血を流されたキリストの体とを重ねて理解するようになりました。

 この裂かれたパン、この裂かれたキリストの体を受け取れ、とイエス・キリストはお命じになっています。このパンを受け取って食べるということは、十字架の上でその体を裂かれたキリストを受け入れるということに繋がっています。

 イエス・キリストがおっしゃった「これはわたしの体である」という言葉は、ルカによる福音書22章19節では「あなたがたのために与えられるわたしの体」といわれています。同じように第1コリントの11章24節でも、「あなたがたのためのわたしの体」と言われています。どちらも「あなたがたのため」ということが特別に言われています。マルコによる福音書にはこの「あなたがたのため」という言葉は出てきませんが、しかし、10章の45節で、イエス・キリストがご自分の使命についてお語りになったとき「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」とおっしゃっています。イエス・キリストがご自分の体をささげられたのはイエスを信じる「あなたがたのため」にほかなりません。この「あなたがたのため」に献げられたキリストの体を、自分のために身代わりとなって献げられた体であると受け入れること、そのことが求められています。

 それから、同じように杯をとって、弟子たちに与えて言われました。

 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」

 杯の中にはぶどう酒が入っています。そして、イエス・キリストはこのぶどう酒をご自分の血におたとえになって、「多くの人のために流すわたしの血である」とおっしゃっています。

 ここでもイエス・キリストはご自分が身代わりの犠牲の死を遂げようとしていることを語っていらっしゃいます。

 イエス・キリストは、この最後の晩餐の後、1日とたたないうちに十字架の上で処刑されてしまいます。しかし、その死はただの死ではなく、わたしたちの罪の身代わりとして献げられた犠牲の死にほかなりません。

 さらに、イエスはご自分の血を「契約の血」であるとおっしゃっています。契約の血というのは、かつて神がシナイ山でイスラエルの民と契約を結ばれたときに用いられた犠牲の血です。今や古い約束にかわって、イエス・キリストはご自分の血を新しい契約の血であるとおっしゃっています。

 このぶどう酒の杯にあずかることは、神の民の新しい契約に与ることにほかなりません。かつて旧約時代の民は過越の小羊が流した身代わりの血によって、救われ、神の民の一員として神の契約に与るものとされましたが、今や小羊であるイエス・キリストの血によって救われ、新しい契約にあずかるものとされたのです。

 イエス・キリストは、この主の晩餐を記念として行うようにと弟子たちにお命じになりました。キリスト教会で守られる聖餐式は、この聖なる主の晩餐を再現し、キリストの死の意味を覚える儀式にほかなりません。世々の教会は聖餐式を通して、キリストの死の意味を覚え、わたしたちのために献げられたキリストの体、わたしたちのために流されたキリストの血を自分のものとして受け取っています。わたしたちの救いにとって大切なことは、このキリストを自分のものとして受け取ることです。

 そこにはキリストの十字架の死の意味を信じる信仰が求められています。シンボルとして提供されているのは、パンであり、ぶどう酒です。それ自体が、受け取った人に対して何か特別な効果をもたらすものではありません。しかし、ただのキリストの死をまねたパフォーマンスでもありません。キリストを信じる信仰がなければ意味がありません。もちろん、最後の晩餐の席上で、今までの過越の食事とは違った意味付けで提供されたこの食事を、弟子たちがどれほどの理解をもって受け取ったのかは、わかりません。おそらく、深い意味も考えずに、言われるがままに受け取ったのかもしれません。

 しかし、後に、現実の十字架の上にかけられたキリストを目撃し、さらに死者の中からよみがえられたキリストに出会った弟子たちは、この食事の意味の重要性を理解し、キリストがお命じになった通り、後の世代の教会に伝え続けました。