2019年4月25日(木) 葬りの備え(マルコ14:3-9)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 初めて福音書を読んだとき、「ナルドの香油」という言葉を目にして、とても芳しい香りを思い浮かべました。特にヨハネによる福音書の中には「家は香油の香りでいっぱいになった」という場面が描かれていますので、どれほどの芳しい香りかとますます想像を膨らませたのを覚えています。

 つい数年前、アロマブームに乗って様々な香油の香りを味わうチャンスに恵まれましたが、ついにその中にナルドの香油と出会うという経験をしました。その香りをどう表現したらよいのか、表現力の乏しいわたしには、何ともいえない香りとしか表現のしようがありません。「落ち着いたカラメルの甘い香り」といわれていますが、香りの好みも時代と地域によって随分違うものだとそのとき深く思いました。もっとも、現在のスパイクナルドの精油が聖書時代のナルドの香油と同じであるかどうか興味のあるところです。

 さて、きょうは、このナルドの香油をキリストに注いだ1人の女性のエピソードから共に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章3節から9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、1人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は3百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 マルコによる福音書は14章からいわゆる受難物語と呼ばれる個所に入ります。先週学んだとおり、イエス・キリストを何とかして殺そうと願うユダヤ人指導者たちの思いも、過越祭を前に一気に高まります。

 そうした外での騒がしい情景とは対照的に、ベタニアにある、とある一軒の家では静かな食事の席が設けられていました。そこは重い皮膚病をわずらうシモンの家です。この病に冒された人は、人と接することが許されていませんでしたから、このような食事の席に人が一緒にいるというのは珍しいことであったと思われます。おそらく、普段は人目をさけた、ひっそりとしたところだったに違いありません。この食事の席に他にどんな人たちが同席していたのか、はっきりは分かりません。少なくとも弟子たちと、それからナルドの香油を持ってきた1人の女性がそこにいました。

 その女性は手にしていたナルドの香油の壺を壊して、イエス・キリストの頭に注ぎました。その値段は3百デナリオンと言いますから、それは当時の日雇い労働者が3百日間働いてやっと得るほどの高価な香油です。

 当然、その場に居合わせた人たちは憤慨しました。もっと有効な使い道があったはずだというのです。確かにそれを売り払えば、貧しい人々に施すことが出来たはずです。10人の人に一月にわたって仕事を与えることができる金額です。だれでも、このような香油の無駄遣いに憤慨するのは無理もありません。

 けれども、イエス・キリストにとっては、この女のしたことは、ただ、芳しい高価な香油を注いだとというだけに留まりませんでした。

 「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」

 はたして、この女性にとって、この食事の席でキリストの頭に香油を注いだことが、キリストの葬りであるとの自覚があったのかどうかは分かりません。おそらく、そのような意識はなかったことでしょう。よもや、この祭りの期間中に十字架にかけられて殺されてしまうなど、想像もしていなかったかもしれません。ただ、イエス・キリストがかねてから予告していたように、受難と死とがキリストの身にせまっていることは、他の弟子たちよりもはるかに敏感に感じていたのかもしれません。そうであればこそ、3百デナリオンもする高価な香油を惜しげもなく使い切ってしまったのでしょう。

 言い換えれば、他のどの弟子よりも、キリストの受難の予告の言葉を真面目に受け取っていたということです。

 「あと数日後にキリストは十字架の上で息を引き取られる。だから葬りの準備をしにきました」…この女にそういった自覚はないにしても、しかし、どの弟子よりもキリストの受難の予告の言葉を真面目に受け取っていたのでしょう。

 しかし、他の弟子たちはそうではありませんでした。あれほど、何度も何度も予告されたキリストの死を真摯に受け取る事がなかったのです。そうであればこそ、この女のしたことを、何も思い巡らせることなく、まるで傍観者のように非難しています。

 キリストの受難物語を読むにつけ思うことは、それを取り巻く人間模様と神の救いのご計画の不思議さです。

 前回も学んだように、この出来事の舞台となっている病人のシモンの家の外では、ユダヤ人の指導者たちが、イエスを殺そうと計略を企てています。しかし、この計略は人間の企てをはるかに越えたところで、神の救いの計画と繋がっています。他方、シモンの家の中には、将来、この神の救いのご計画の証人として立とうとしている弟子たちがいます。ところが、この弟子たちは、神がキリストの十字架を通して成し遂げようとしていらっしゃることにはあまりにも無頓着、無関心な人たちです。

 ところが、名も明らかにされない一人の女性だけが、キリストの死が間近に迫っていることを意識して、普通ならば貧しい人々に施しても良いような高価な香油を、キリストのためにだけ使いました。

 イエス・キリストはおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」

 この人のしたこと、キリストの受難と死とを真摯に受けとめたこと、このことこそがキリストの救いに与る一歩なのです。