2019年4月4日(木) これらのことが起こるまで(マルコ13:28-31)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世の終わりの出来事に関する聖書の教えを、キリスト教の専門用語では「終末論」と呼んでいます。もっとも、終末に関する教えや思想と言うのは、何もキリスト教だけのものではありません。「〜論」とまで大袈裟に言わなくとも、今の世がいつまでも続くはずがないと思う気持ちは、人間に素朴に備わっているように思います。これは先行きが不安な時代に生まれ出てくる、人間の精神構造に由来しているのかもしれません。たとえば日本では11世紀ごろに末法思想というものが、貴族政治の崩壊とあいまって時代を風靡しました。
また、人間の正義感や倫理観から終末の到来を強く希望すると言うこともあります。悪や不公平が長年にわたってまかり通る社会では、寄る辺のない者たちが、最後の望みとして、世の終わりや最後の審判を強く期待するということが起こります。
こうした不安や期待がさまざまな終末についての教えを発展させ浸透させていく一つの契機となったことは否定できません。しかし、今、マルコ福音書から学ぼうとしていることは、社会現象としての終末論の展開でありません。正にイエス・キリストが教えてくださった終末についての教えです。不安や期待から人間が生み出してきた終末についての教えと、イエス・キリストが教えてくださった終末についての教えとでは、やはり異なっています。その点に注意しながらきょうもイエス・キリストが教えてくださった終末についての教えを注意深く学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 13章28節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
人間的な不安や期待が生み出した終末論の特徴は何かと言うことを考えると、三つの点にあるように思います。
一つは、万物の滅び、あるいは現在の世の中を動かしているシステムの崩壊と言うことを強調することです。そして、その裏返しとして、現実の営みを軽いこと、あまり価値のないことと考えます。
二番目の特色は、そうした滅びや崩壊に先立って、終末時代の到来を知らせる何らかのしるしがあると言うことが強調されます。従って、その特別なしるしを研究し明らかにすることが重要な課題と考えます。
そして、三番目には、自分たちこそがその時代のしるしを事前に察知して、滅びからの救いにあずかる集団であると言うことを強調することです。
これは、確かにある面でキリスト教の終末論にも言えることかもしれません。しかし、イエス・キリストの教えられたことを注意深く読むと、それだけに偏っているのでは決してありません。
先ずはじめに、イエス・キリストは「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とおっしゃっています。それはイチジクの木の様子から夏の近いことを悟るのと似ているともおっしゃっています。確かにそういう意味では、終末に先立つしるしのことをイエス・キリストも教えていらっしゃいます。
しかし、イエス・キリストはこのことを教えられたすぐ後で、こうおっしゃいました。
「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」
一般的に言えば終末についてのしるしを求める動機は、降りかかる災難から逃れるために他なりません。けれども、しるしを求める思いばかりが昂じると、現実の社会での生活を浮き足立たせてしまうということが起こりかねません。実際、初代教会の中にも、世の終わりのことを思うあまり、落ち着きのない生活や怠惰な生活に陥っていった者たちがいました。
そういう不安な思いを掻き立てられて、しるしにばかり目を奪われてしまわないようにと、イエス・キリストは「この時代は決して滅びない」とわざわざおっしゃっています。
もちろん、この時代が滅びないのは、これらのことが起こるまでの期間のことです。しかし、「これらのことが起これば、この時代は必ず滅びる」という言い方よりもはるかに、たとえ、わずかばかりの期間でも滅びないでいるこの時代のことへとわたしたちの目を向けさせます。
終末に向かって生きるということは、この時代が滅びることだけに思いを馳せる生き方では決してありません。今日来るか、明日来るかと、そわそわと空ばかり眺めて無為に日々をおくることではありません。諸々のことがすべて起こるまでは決して滅びることがないこの時代を、この時代の中にあって目を覚まして生きることが大切です。
そして、何よりも、イエス・キリストが教えられたのは何かが「滅びる」という終末論ではなく、滅びないでいつまでも残りつづけるものがあるという終末論なのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」
すべてが滅び去った後で何も残らない終末論は、本当の意味での終末論ではありません。天地は確かに滅び去ります。しかし、イエス・キリストの言葉が万事を治める新しい天と新しい地が与えられます。
ここで大切なのは、終末の苦難を経て残るのは、先ず第一にしるしを見分けた人々なのではありません。そうではなく、イエス・キリストの真実な言葉がいつまでも残るのです。そして、その真実な言葉の結果として、その言葉に耳を傾け、その言葉によって治められる神の民が残るのです。
終末についての教えは、わたしたちが生き残ることに最大の関心があるのではありません。もちろん、わたしたちが一人も生き残らないのでは終末論を信じる意味がないことは分かります。けれども、事柄の中心はわたしたちではなく、いつまでも滅びることがない神の言葉なのです。その神の言葉の真実さがが明らかになることなのです。そして、その結果として神の支配の対象である新しい天と新しい地と、そこに住む神の民が残されるのです。
このことを信じて、落ち着いた信仰生活を歩むところにイエス・キリストの教えてくださった終末論の力強さがあるのではないでしょうか。