2019年2月14日(木) メシアとは(マルコ12:35-37)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「救い主」という言葉について、誰にでも自由に語っていただくとすると、実にたくさんの救い主のイメージが出てくると思います。病気を患っている人は、癒されることを救い主に期待するでしょう。貧困に苦しんでいる人は、富を公平に分配してくれるような救い主を期待するかもしれません。あるいは、不正が幅を利かせ、正義の実現に苦しんでいる人は、救い主に公平で平和な世界の実現を期待することでしょう。あるいは、もっと露骨に自分の幸福の実現だけを救い主に期待する人も居るかもしれません。
それと同じように、イエス・キリストの時代にも実に様々なタイプのメシア像があったといわれています。どれか一つの明確な救い主のイメージだけがユダヤ人によって期待され、待望されていたと言うわけではないようです。
きょう取り上げる聖書の個所で、イエス・キリストが問題とされているのは、そうした数あるメシアについての期待の一つです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 12章35節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
きょうの個所は、話をさらっと読んだだけでは、話の筋がよく見えてこない個所だと思います。何のことを言っているのか、また、どういうロジックで答えが出てきているのか、はたまた、こういうことを論じることに一体何の意味があるのか、さっぱりピンとこない個所の一つだと思います。
番組のはじめにもちょっと触れたとおり、今日のお話は、イエス・キリスト時代のユダヤ人の「メシア像」「救い主像」と深く関わっているということです。
律法学者たちが「メシアはダビデの子だ」と言っているのは、そういうメシアに対する期待があってのことです。旧約聖書の中に、「来るべきメシアはダビデの子である」という言葉そのものがあるわけではありません。メシアを呼ぶ称号として「ダビデの子」という言い方が出てくるのは、紀元前1世紀頃に書かれた『ソロモンの詩編』と呼ばれるユダヤの文書の中です。そこでは異邦人を打ち倒して王国を建てるメシアの姿が描かれています。
もっとも、ダビデの末裔から救い主が現れると言う期待の根が旧約聖書の中にあることは、否定できません。神がダビデに約束した言葉は、ダビデの王国がその子孫によってとこしえに続くと言うものでした。ダビデの子ソロモンの時代には、この神の約束は疑いようもなく確かなものと受け止められていましたが、次の世代になると、イスラエルの国が南北に分裂し、やがては外国の強い国によって滅ぼされてしまいます。そうなると、ダビデ王国の永続を約束した神のあの約束はどうなったのかという思いが出てきます。
旧約聖書の預言者たちはダビデ王家の若枝について預言をし、神の約束が決して無効になってしまった訳ではないことを思い起こさせます。メシアがダビデの子であるとする考え方が出てきたのも、こうした旧約聖書の預言の言葉が背景になっていることは疑いありません。
しかし、問題はそうして登場したダビデの子としてのメシアに対する期待が、どういう内容の救い主を期待する思いと結びついていくのかと言うことです。
さきほど触れた『ソロモンの詩編』と呼ばれるユダヤ教の文書の中に登場するダビデの子であるメシアは、非常に政治色・軍事色の強いメシアです。人々が「ダビデの子」に期待していたのはそういうメシアだったのです。
こうした当時の人々の救い主に対する期待を背景にイエス・キリストと律法学者の問答を考えてみなければなりません。
イエス・キリストがした質問は、言葉の表面の意味は確かに、メシアはダビデの子かどうかと言うことにつきます。しかし、問いかけの意図は、果たして救い主であるメシアがそういう軍事的・政治的なダビデの子として捉えることができるかと言うことなのです。
もし、ただ単に、メシアがダビデの子ではないということを言おうとしているのだとすれば、新約聖書が一所懸命に記しているイエス・キリストの系図そのものが意味を失ってしまいます。イエス・キリストは確かにダビデの子孫として生まれたメシアに他なりません。
イエス・キリストはこのことについてお語りになるときに、旧約聖書の詩編110編の言葉を引用してこうおっしゃいました。
ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。
確かに一見したところ、イエス・キリストは、真のメシアが、ダビデの子なのか、それともダビデの主なのか、ということを問題にしているように読めなくもありません。
しかし、そうだとしたら、そのような議論は、あまり意味のあるものではありません。なぜなら、メシアがダビデの子であることを信じる人々にとっても、メシアがダビデ以上の存在であると言うことは言うまでもないことだからです。彼らは決してダビデ以下の救い主を期待していたわけではありません。したがってダビデがメシアのことを主と呼んだとしても、それはかれらにとって全然不都合なことではありません。
むしろ、イエス・キリストがこの詩編を引用して明らかにされようとしたことは、神とメシアとの間にある独自の関係なのです。期待すべきメシアは、自分で戦いに出るメシアではなく、神の右に座って、すべての敵が神によって屈服させられるのを待つメシアです。そういう意味で彼らが期待している「ダビデの子」であるメシアのイメージとは全く違います。確かに、救い主であるメシアはダビデの子孫としてお生まれになります。しかし、ダビデのように武力によって敵を平定する政治的な王ではありません。
この世が期待するメシアや救い主のイメージは、多かれ少なかれ、自分の願いを力で実現する救い主のイメージです。しかし、そのような勝手な期待にこそメスが入れられなければなりません。
イエス・キリストはわたしたちが自分勝手に描いている救い主への期待こそ、危険なものであると指摘してくださいます。それは、何よりも聖書の言葉に耳を傾けなければ、読み取ることのできない救い主の姿なのです。