2019年1月10日(木) イエスの権威は(マルコ11:27-33)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
試験を受けるとき、自分の答えが○か×か、そればっかりを気にしてしまいがちです。それで、ついつい準備のための勉強も、結論だけを丸暗記してしまおうと、安易なことを考えたりします。
ところが、試験を離れた勉強では、自分が納得する答えを自分で探さなければなりません。模範解答というものがあるとは限りません。場合によっては、問題さえも自分で考えなければならないということもあります。むしろ、問いを立てることができる、ということの方が答えを探すより大事なこともあります。何をどう問いかけ、それにどう答えるのか、そのすべてを自分で考えることが大切です。
キリスト教の信仰というものも、最後は自分で問いを立て、自分で答えていかなければ、自分の身には決してつかないように思います。
きょうの聖書の個所にはイエス・キリストについてのとても大切な問いが出てきます。その問いにどう答えるのか、一人一人が自分の答えを出さなければなりません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 11章27節〜33節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば…。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
十字架におかかりになるまでの最後の週、イエス・キリストは何度もエルサレムの神殿を訪れては、境内で大胆に民衆に語りかけていらっしゃいました。丁度ユダヤ人の大切なお祭り、過越の祭りの期間でもあったので、ユダヤの最高法院の議員たちは何か不穏なことでも起きはしないかと、気がかりでなりませんでした。
特に神殿の境内で売り買いをしている者たちを追い出したキリストの姿は、とても激しいものでした。その様子を見た指導者たちは、このキリストの態度を黙って見過ごすわけにはいかないと感じたことでしょう。
早速キリストのもとへやってきて尋ねます。
「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
この問いかけは、神殿境内の治安を考え、また、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ民族の安全を考える者たちにとっては重要な問いかけでした。もちろん、彼らがそのようなことを尋ねたのは、答えがわからなかったからではありません。彼らには既に答えがありました。
その答えとは、イエス・キリストにはそんなことをする権威などどこにもないということです。
祭司長、律法学者、長老たちがそのような問いをイエス・キリストに投げかけたのは、答えを知りたくてではなく、むしろ、自分たちの目の前にいるキリストに、行動を慎むように警告を与えるためでした。
この問いかけに対して、イエス・キリストは即座に、彼らに問い掛けなおします。
「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
このキリストの問いかけは、祭司長、律法学者、長老たちが予想もしていなかったものでした。それと同時に、このキリストの問いかけは、彼ら自身の問題の取り組み方の間違いを指摘しています。彼らの取り組み方の間違いとは、彼らが問いを立てるときに、すでに彼らの結論が先にあったということです。そのことが問いに対して真剣に取り組むことを阻んでいたということです。
「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」という問いは、一見宗教的な問いかけであるように見えます。しかし、祭司長、律法学者、長老たちにとっては、それは単に政治的な意味しかありませんでした。要するに、彼らにとっては、その問いに対するイエスの答えがどうであれ、エルサレムの平和こそが問題であり、その治安が維持されることだけが最大の関心なのです。それはひいては自分たちの生活の安全にもつながっていました。イエス・キリストの権威が天からのものであるかどうかには、実際には関心がありませんでした。
彼らの問いかけの動機を正すために、キリストは洗礼者ヨハネの活動の権威がどこに由来するものであるのかを彼らに問い掛けます。
この問いはヨハネの宗教的な権威を尋ねた質問です。しかし、指導者たちはこのやり取りの結果、自分たちにどんな不利益が降りかかるかを気にするあまり、答えに窮してしまいます。
「もし『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう」と考える発想の仕方そのものが、自分の身を守るための政治的な判断でしかありません。
「しかし、『人からのものだ』と言えば、群集が黙ってはいない」と考えるのもやはり政治的な判断です。
結局のところ、彼らは政治的に物事を考えようとするあまり、問いそのものがもっている宗教的な事柄をすっかり忘れてしまっているのです。
頭のよい指導者たちには、このイエスの機知に富んだ問いかけの意図にすぐに気が付いたに違いありません。しかし、それでも正面から答えを出そうとはしませんでした。
自分の身を守るためにどう答えるのが一番よいか、そればかりを考えていたのでは、結局はいつまでたっても真理に到達することは出来ません。真理を阻むもの、それは、結局、人の内面に巣づくっている自己保身の考え以外の何ものでもありません。