2018年8月23日(木) ほんとうのメシア(マルコ8:31-33)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 マルコによる福音書は四つの福音書の中で、しばしば一番正直な福音書だと言われています。もう少し、悪い言葉でいえば、表現がところどころ率直過ぎて粗野なところがあるとも言われています。

 実は今日お読みしようとしている個所もその一つです。ペトロがイエス・キリストをわきへ連れて行っていさめたのに対し、イエス・キリストもペトロのことをサタンだと名指しして叱ったと記されています。

 ルカによる福音書にはその部分は完全に省略してしまっていますし、マタイによる福音書も、マルコ福音書とほぼ同じことを記しながら、しかし、言葉を少しだけやわらげて、イエスがペトロを「叱った」とは書いていません。そういう意味で、マルコ福音書は出来事の様子をはばかることなく率直に描いている福音書だと言うことができます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章31節〜33節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 先週は、弟子のペトロが他の弟子たちを代表して、「イエスこそキリストである」「イエスこそメシアである」と信仰を告白したことを学びました。それはこの福音書にとって、初めて弟子たちがナザレのイエスに対する自分たちの思いを表明した大切な個所でした。現在のキリスト教会も、このペトロと同じようにイエスはキリストであることを固く信じています。そういう意味で、ペトロの告白した言葉は、後のキリスト教会の信仰全体がよって立つ、重要な信仰の表明と言うことができます。

 しかし、先週も少し触れましたが、ペトロが「イエスはキリストである」と言うことを、あの場面、あの時点でどれほどその中身を理解していたかということは、また別の問題です。マタイによる福音書は、同じ場面を描くときに、イエス・キリストがおっしゃった言葉を次のように記しています。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)

 ペトロはペトロの理解の範囲の中で「あなたはメシアです」と答えたことは間違いありません。しかし、「イエスはメシアである」ということの深い意味は、ペトロが思っていた以上のことだったのです。

 その意識のギャップはすぐさまにも明らかにされてしまいます。そのことがきょうの個所の重要なポイントです。つまり、「イエスはメシアである」ということは一体どういうことなのか、ということです。

 この点を正しく理解するためには当時のユダヤ人たちが期待していたメシア像というものを理解しなければなりません。

 先週もお話した通り「メシア」とは「油を注がれた者」という意味のヘブル語あるいはアラム語です。油を注がれて任職されるのは、旧約聖書の中では王、祭司、預言者の三つの職務でした。やがて終末のときに遣わされる救済者をさす用語に変化していきました。終末の時に遣わされる救済者としてのメシアは、もともとの職務のイメージと結びついて、王としてのメシア像や祭司としてのメシア像など様々なメシア像を生み出していきました。例えば死海のほとりで隠遁生活を続けたクムラン教団の残した死海文書の中には祭司と王の二人のメシア像が存在していました。あるいは別のユダヤ教の文書であるソロモンの詩編に現れるメシアの姿は政治的・軍事的な王の姿と重なります。そういう意味では、ユダヤ人に期待されていたメシア像と言うものは多様なパターンがあったのかもしれません。ただ、一般的に言われていることは、ユダヤ人のメシア像はだんだんと王としてのメシア像に集約されていったということです。たとえば、後に使徒たちを逮捕して処分を話し合う最高法院の議会では、イエスと言うメシアを信じるこの集団を、テウダに従った4百人ほどの政治的反乱分子や、ガリラヤのユダに従って反乱をおこした民衆と同列においています(使徒5:33以下)。つまりは、彼らにとってキリスト教徒は政治的王としてのメシアの思想にかぶれた団体だとしか思われなかったのです。

 また、イエス・キリストをローマに訴え出たのも彼らでしたが、そのときにも、主な訴えの理由はイエスが政治的な王を名乗るメシアであるとのことでした。

 つまり、一般民衆にとってメシアと言えば、政治的な救済者としての王の姿とだんだんと結びついていったと言っても過言ではありません。実際、ヨハネによる福音書では、5千人の人々にパンを分け与えたイエスを捕らえて、自分たちの王になってもらおうとした民衆のことが描かれています(ヨハネ6:15)。

 そういったことを背景に、ペトロがイエスのことを「あなたこそメシアです」とあの時答えた言葉を考えてみると、果たしてあの時点で「イエスがメシアである」と言うことの意味を、どれだけ深く理解していたかは疑問と言わざるを得ません。

 そこで、きょう取り上げた個所には、イエス・キリスト自ら、自分がどういう意味でのメシアの職務を果たされようとしているのかが、初めて弟子たちに告げられます。それは、恐ろしいことに、敵をやっつけるメシアではなく、十字架の死に至るまで苦しまれるメシア、十字架の上で死んでよみがえられるメシアの姿です。

 このようなメシアの姿は当時の人々にはだれも予想できないことでした。確かに、旧約聖書のイザヤ書の53章に出てくる苦難の僕の歌や、詩編22編に出てくる苦しみに遭う義人の歌や、あるいは詩編118編の「家を建てる者が捨てた石が隅の親石となった」ことを告げる詩編などを注意深く読んでさえいれば、イエスの言葉に驚くこともなかったでしょう。しかし、だれも、そのような個所が意味あることとは思いもよらなかったのでした。

 そうであればこそ、人の子メシアの苦難と死と復活を予告するイエス・キリストの言葉は、ペトロにとってさえ、理解しがたい言葉だったのです。自分の師であるお方を脇へ連れ出していさめるほどですから、ペトロのショックがどれほどであったかは容易に想像できると思います。

 しかし、この動揺を隠し切れないペトロに対して、イエス・キリストは「サタン、引き下がれ」とお命じになります。苦しみのメシア、死んで死に打ち勝つメシアこそが、神から遣わされたメシアであるからです。

 ペトロが「あなたこそはメシアです」と深い意味も考えずに告白したイエスとは、実は十字架にお掛かりになろうとしているメシアにほかなりません。