2018年8月16日(木) イエスこそメシア(マルコ8:27-30)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「イエス・キリスト」という言葉は、今では名前と苗字のようにほとんど固有名詞になってしまいました。しかし、本来は「イエス」が個人の名前をあらわす固有名詞で、「キリスト」の方は「油を注がれた者」という役職をあらわす一般名詞です。そして、キリスト教と言うのは、一言で言えば「イエスはキリストである」と言うことを信じる宗教です。どんなに聖書を知っていても、イエスがキリストであることを信じないならば、その人はクリスチャンではありません。あるいは、イエスの教えにどれほど感銘を受け、どれほど感化されているとしても、イエスをキリストであると信じていないとすれば、やはりクリスチャンではありません。イエスをキリストと呼んではばからないところに、キリスト教の特徴があります。
さて、きょうこれからお読みしようとしている個所は、一つの山場といってもよい個所です。イエス・キリストが正面きって弟子たちに、ご自分が何者であると思うかと問い掛けていらっしゃるからです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章27節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
今日の個所は、弟子たちが自分の言葉でイエスを何者と思うのかを告白した、有名な個所です。それはこの福音書の中では、初めて弟子たちがイエスをどう思うかを語った個所でもあります。この有名な個所をご一緒に学んでみましょう。
イエス・キリストは弟子たちをフィリポ・カイサリア地方へ連れて行かれたとあります。フィリポ・カイサリア地方というのはガリラヤ湖の北の方から東に広がる地方で、領主フィリポが父のヘロデ大王から分割を受けた土地です。その首都がフィリポ・カイサリアで、その昔はギリシアの牧童神パンに捧げられた洞窟があったので、その洞窟のある場所をパネイオンと呼んでいました。そして、これにちなんで、その昔この地方はパニアスと呼ばれていました。
この領土がローマ皇帝アウグストゥスからヘロデ大王の手に与えられたとき、ヘロデ大王は皇帝のために神殿を建てたといわれています。そして、その息子フィリポが町を再建したとき、この町を皇帝にちなんでカイサリアと名づけました。カイサリアというのはもう一つ海沿いにも同じ名前の町がありましたから、それと区別して、フィリポ・カイサリアと呼ばれています。
以上のことからも想像できる通り、本来はギリシャ神話のパンと関係がある土地であり、後に皇帝を神と祭り上げる場所でありましたから、そこは異教的なムードの漂うところでした。そのような場所にイエス・キリストは弟子たちを伴って行かれ、弟子たちに問い掛けました。
そこで、まず、イエス・キリストが弟子たちに問い掛けたことは、人々がご自分のことをどう言っているのか、と言うことでした。確かにイエス・キリストが今まで行われてきたこと、教えてこられたことを通して、様々な思いを抱く者たちが現れてきたことは確かです。
弟子たちによれば、ある者はイエスを洗礼者ヨハネだと言っています。このことは、既に6章で学びましたが、ヘロデがイエスの噂を聞きつけて、「あの男は自分が首をはねたヨハネのよみがえりである」と言ったとおりです。そう信じる人々が他にもいたのでしょう。
別の人々はエリヤだと言う人もいました。エリヤは紀元前9世紀頃に活躍した北イスラエル王国の預言者でしたが、その生涯の最後は、火の車と馬によって神のもとへと連れ去られていった人物です。旧約聖書の最後の書、マラキ書には「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されています。それで、人々の間には救いの日にエリヤがやってくるという期待があったのでしょう。
さらに、別の人たちは、イエスを預言者の一人と考えていました。
こうした人々の考えを弟子たちから、聞き出した後で、今度は弟子たち自身に対して問い掛けられています。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
イエス・キリストが人々の考えを聞きだしたのは、決して人々の噂を気にしていたからと言うのではありません。そうではなく、人々の噂や意見とは区別して、自分たちはどう思うのか、と言うことを自覚させるためでした。このイエスの問いかけはとても大切な意味を持っています。人がどう思うのかということは、情報として提供することは簡単にできるでしょう。しかし、自分がどう思うのかということは、よくよく熟慮して答えなければなりません。
そこで、ペトロが一番に答えました。
「あなたは、メシアです。」
メシアと言うのはヘブル語で油を注がれた者、つまり、ギリシャ語ではキリストと言うのと同じです。ペトロはイエスを油注がれた者と答えたのです。
油を注がれた者というのは、旧約聖書の中では特別な職務を指しました。それは、王、祭司、預言者を任命するときに頭に油を注いだからです。やがて、この油注がれた者とはもっと特別な意味を持つようになりました。やがて救いのために来てくださるお方が、真の王、預言者、祭司の務めを果たすお方であると期待されるようになったからです。
ところで、ペトロがこのことを口にしたとき、はたして、どれほどの信仰がそこにあったのかということは、定かではありません。マタイによる福音書では、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とイエス・キリストはおっしゃっています。ペトロ自身も本当の意味はまだ十分理解できていなかったのかもしれません。
実際、この信仰告白の後で、すぐにも、イエス・キリストから「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と注意されてしまうからです。
ユダヤ人が期待したメシアと神がお遣わしになったメシアであるイエスとの間には大きなギャップがあったからです。では、神が遣わされた真の王であり、預言者であり、祭司であるお方とはどのようなお方なのでしょうか。そのことを理解することこそが、キリスト教を理解する鍵なのです。