2018年7月26日(木) しるしが見えない時代(マルコ8:11-13)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新約聖書の中にある手紙を書いたパウロは、コリントの信徒への手紙一の1章22節で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」と言っています。それぞれの民族が何を大切に物事を判断しているのか、そのことをうかがわせる言葉です。
この場合、ユダヤ人が求めている「しるし」とは、単なる証拠、というのとは違います。天からのしるし、超自然的なしるし、ということです。そのことが、本当に神から出たものであることを示すようなしるしとなるものです。パウロは、自分が宣べ伝えていることが、本当に神から出たものであるのか、その証拠となるしるしをおそらく何度となくユダヤ人から求められたのでしょう。
さて、きょう取り上げようとしている個所には、天からのしるしを求めるファリサイ派の人々が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章11節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
きょうの個所にはファリサイ派の人々が登場します。マルコによる福音書の中にファリサイ派の名前が登場するのはそんなに多くの回数ではありません。しかし、イエス・キリストに対する彼らの立場がとても敵対的であったことは、この福音書のはじめから明らかでした。キリストが罪人や徴税人たちと食事を共にしたとき、ファリサイ派の人々は、イエス・キリストが神から遣わされた人物ではあり得ないと確信しました。なぜなら、神が忌み嫌う罪人と、神から遣わされるメシアとが食事の席に同席するとは考えられないことだからです。その上、ユダヤ人たちの習慣に従って安息日を守ろうとしないイエス・キリストの姿は、正に神を冒涜する者と、ファリサイの人々には思えました。一旦、そういう偏見が染み付いた彼らの心には、その後、イエスがなさったどんな奇跡も意味のあるものとは映りませんでした。そこで、イエス・キリストを殺してしまおうとする恐ろしい相談がなされたことが、この福音書の3章6節にはすでに記されています。
以降、ファリサイ派の人々がしてきたことは、イエス・キリストをやり込める口実をできるだけたくさん集めることでした。きょう登場するファリサイ派の人々も、決して信じるためのしるしを求めていたと言うわけではありませんでした。それは「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」に過ぎません。
本来は、旧約聖書の中にある通り、天からのしるしを求めることは決して悪いことではありませんでした。
たとえば、列王記下の20章にはヒゼキア王が自分が死の病から癒されことのしるしとして、日時計に落ちた日影を十度退かせることを願い、その通りしるしを与えられることが許されました。またエジプトにいるユダヤ人に遣わされることになったモーセには、その使命に伴った数々のしるしが与えられました。
しかし、神を試みるためにしるしを求めることは罪とされました(詩編78編17以下)。神を疑うこと、神を試すこと、そのためにしるしを求めるのは不信仰以外の何ものでもありません。
新約聖書のヘブライ人の手紙の中に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)という有名な言葉があります。確かに見たことが信仰に結びつくのではなく、むしろ、信仰が見えないものをよりはっきりと描けるようにしてくれると言うことがあります。そういう信仰を持っている人にとっては、しるしを見ることが信仰をよりいっそう強めることになるでしょう。しかし、見えないものを信じる心のない人には、しるしを見てもしるしが素通りしてしまうと言うことになるのです。
実際、ここに登場するファリサイ派の人々は、イエス・キリストの奇跡を目の当たりにしてきました。けれども、それは彼らにとっては、イエス・キリストと共に神が働いてというしるしではなく、むしろ、悪霊の頭が共にいることのしるしとしてしか映りませんでした。
このような彼らに対して「イエスは、心の中で深く嘆いた」とあります。それもそのはずでしょう。彼らの心の中に少しでも求道心と言うものがあったとすれば、こんな深いため息をつくようなことはなかったはずです。
ファリサイ派の人々が求めていたしるしは、決して自分たちの心が動かされることを期待したしるしではありませんでした。しるしを求めるふりをしながら、実際には上げ足を取ることしか頭になかったのです。自分のすべてをなげうってでも、自分が変えられることを願う気持ちなどこれっぽっちも持ち合わせていなかったと言ってもよいでしょう。それは丁度、目をつぶり、耳をふさぎながら、「見えない」「聞こえない」といっているのと同じです。そのような愚かさをご覧になって、イエス・キリストは深く嘆かれたのです。
「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
「決して与えられない」とは、随分意地悪のように聞こえるかもしれません。しかし、ここでイエス・キリストがおっしゃりたいのは、神が意地悪で与えないのでは決してない、ということです。与えられないその理由は、神の側にあるのではなく、むしろそれを受け取る人間の側に問題があるからです。神が与えないからではなく、むしろ、与えようとしても、それを人間が受け取ろうとしないからです。あるいは受け留める器を持たないからと言ってもよいでしょう。
ここに人間の心の頑なさを思います。人間の罪深さとは、正にこんなにも深く人の心の内に根ざしています。聞きたいのなら、ふさいだ耳を開けばよいだけです。見たいのなら、つぶった目を見開けばよいだけです。しかし、それすらできないところに、罪の深さを感じます。
イエス・キリストが深いため息をつかれたのは、ただ単に彼らの心の頑なさに対してだけではなかったでしょう。むしろ、そのような頑なさが、人間の心の奥底に潜んでいる罪と深く結びついているからです。
最終的に神から示されるしるしは、十字架につけられたメシアです。そのようなメシアの姿は彼らには期待はずれの姿です。しかし、この十字架にかけられたメシア、十字架のイエス・キリストだけが私たちを罪の縄目から解放し、頑なな心を解放して、神に向かう道を歩むことができるようにしてくださるのです。