2018年7月19日(木) 余韻のある恵み(マルコ8:1-10)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
初めて聖書を読んでいて、不思議に感じたことの一つに、どうして神から選ばれた選民たちは、こうも早く神の恵みを忘れてしまうのだろう、ということでした。例えば、モーセによってエジプトでの苦難から導き出されたイスラエルの民は、荒れ野での生活に不満を抱き、エジプトでの生活の方がよっぽどよかったと不平を口にしています。ソロモン王のもとで、立派な神殿を完成させた敬虔な民たちも、ソロモン王に続く時代になると、だんだんとまことの敬虔さから逸脱し、ついには国を滅亡へと陥らせてしまいます。
最初はいぶかしく感じられたこれらの出来事も、自分が実際に信仰生活を送る中で、まさにこれは自分の姿なのだと思うようになりました。神の恵みにとどまるということは、決して簡単なことではないと気がつくようになりました。
きょう取り上げようとする個所は、もしこれが弟子たちにとって、二度目の経験であるとするなら、神の恵みを少しも学習していないように感じられる個所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「7つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、7つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、7篭になった。およそ4千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
さて、きょうの個所は、細かい点を別とすれば、6章30節以下に記されている出来事と非常に似ています。あまりにも似ているために、実は同じ事件が違った形で伝えられたのではないかとさえ考える学者もいるほどです。なるほど、空腹の群集を見てかわいそうに思ったイエス・キリストに対して、弟子たちの放った言葉は、とても以前キリストの御業を目撃した者の言う言葉とは思えません。
「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」
もし、弟子たちが同じことを本当に以前体験しているのであれば、もう少し違った応答の仕方があったはずです。どう考えても、弟子たちの応答は、ちょっと前の偉大な出来事をまるで経験しなかった者の言い草にしか思えません。実際には同じ出来事が、違った形で伝えられるようになったのだ、と考えるのにも一理あるようにも思われます。
しかし、それにもかかわらず、6章に出て来た話と今日の話は決して同じ出来事ではないと私には思えます。
その理由は、何百年にもわたって伝えられた昔話ならいざ知らず、文書として書き記されるまでに高々30数年しかたっていない出来事が、こうまで変化するとは考えにくいからです。同じ出来事が違って伝えられたとすれば、存命中の目撃者からたちどころにクレームがつくはずです。むしろ、素直に別々な事件と考えた方がすっきりします。
そもそも、キリストは同じ奇跡を二度繰り返したりはしなかった、と考える方が不自然です。
もちろん、それでは、過去の出来事から少しも学習していないような弟子たちの態度をどう説明すべきなのでしょう。腑に落ちません。イエス・キリストが群衆たちのことを気がかりに思い始めたとき、弟子たちはすかさず過去の出来事を思い出しても良かったはずです。
しかし、この点にこそ人間の弱さを描いた真実さがあるのではないかと思われます。同じことを何度も学ばされながら、やっと神の偉大さや恵み深さを知る人間の鈍さが描かれているのだと思います。弟子たちはイエスの奇跡を繰り返し見ながら、なお、そのことを自分の腹におさめるのに時間が掛かったと考える方が自然です。何度も同じ場面にでくわしながら、出来事の意味を悟り、神への信仰を高められていったのです。
そのことは、わたしたちとても同じです。神とはどんなお方かということを聖書を通して繰り返し学んでも、しかし、そのことが自分の腹にはまり、信じた通りに生きるには、なお時間が掛かることです。
むしろ、そこまで繰り返し、繰り返し教えてくださる神の忍耐深さと恵み深さをわたしたちは感謝すべきです。
さて、今回の奇跡も前回の奇跡も、わずかにあったパンと魚から、弟子たちの手を通して、大勢の群衆に食べ物が行き渡るように分配されました。まったくなかったものを手品のように出してきたというのではありません。もちろん、ただ奇跡の大きさを比べるのであれば、無から有を生み出す奇跡の方が目を見張るものがあるに違いありません。
しかし、ここでイエス・キリストがなさったことは、弟子たちのうちに「ある」ものを用いてくださったということ、しかも、弟子たちの手を通して、それらが群衆たちに分け与えられたということに意義があります。
何もないから何もできない、十分にないからできない、というのが私たちです。ないこと、足りないことだけに目が行って、今「ある」ものに気が付かないのが私たちです。
「こんな場所でいったいどこに十分なパンがあるというのでしょう」…弟子たちはそう思いました。
しかし、キリストはどれだけ足りないか、どれだけ不十分かではなく、今「ある」ものがどれだけかということに弟子たちの目を向けさせました。主イエス・キリストはその「ある」ものを豊かに用いてくださいます。そうして与えられるキリストの恵みを、私たちの手で分かち与えることが大切です。
もう一つ、以前の奇跡と今回の奇跡に共通したところがあります。
それは、どちらも有り余る恵みがあふれていたということです。前回は小さな12の篭いっぱいになるほどの残り物がでるほどでした。そして、今回は7つの大きな篭にいっぱいになるほどの残り物です。5千人養った、4千人養ったという効果だけではなく、あまったものを集め、その余韻を味わうときに、本当に主の偉大さを味わうことができるのではないでしょうか。残り物を集めて主の恵みを知る姿勢を教えられます。目に見える華々しい結果よりも、残ったパンくずの中に主の恵み深さが現れているのではないかと教えられます。