2018年4月5日(木) 束縛からの解放(マルコ5:1-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書には悪霊に取りつかれた人の話が出てきます。読んでいて薄気味悪さを感じます。少なくとも自分が生きている世界では、ほとんど見かけない光景です。ある意味では、そういう恐ろしさから解放されているかもしれません。しかし、人間がそれだけ自由に生きれるようになったのか、というと必ずしもそうではありません。もっと巧妙な仕方で心の自由が奪われているという意味では、現代人の方が悲惨です。
きょうこれから取り上げようとしている個所は、ただの気味の悪い話ではありません。神に敵対する得体のしれない力に束縛されているという点で、形を変えて現代にも当てはまる話です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 5章1節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、2千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
きょうの話の舞台はゲラサ人の地方です。正確な場所については議論があるかもしれません。というのは、今日知られているゲラサの町は、ガリラヤ湖の南東50キロ近くの所にありますから、細かい点で今日の状況と一致しません。ただ、きょうの話の舞台がどこであるかという問題は、それほど重要ではありません。むしろ話の中心は、一人の男に起こった出来事です。
この人がいかに人間らしい生き方から引き離されてしまっていたか、具体的な描写が続きます。その住みかは墓場であったこと、鎖や足枷をもってしても縛っておくことができないこと、そして、夜昼となく叫びまわり、石をもって自分自身を打ちたたいていたこと。そのどれをとっても「気味が悪い」の一言で片づけられてしまうかもしれません。
少なくとも二つの点に思いを巡らせる必要があります。
一つは、なぜ、人々はこの男を鎖や足枷で縛ろうとしたのでしょう。人に危害を加えたからでしょうか。そうかもしれません。しかし、気味が悪いというだけで、人はこの人を墓場に追いやり、束縛しようとしたのかもしれません。人間に対する扱いの酷さという点では、この男を取り巻く人間社会も常軌を逸していたと言えるかもしれません。もちろん、この時代は、それが普通だったのかもしれません。
もう一つ思いを巡らせるべき点は、この男がこうなったのは、彼の望むところだったのか、ということです。望んでそうしているのだとすれば、望み通りの生き方をしているのですから、周りがそれをどう見ようと、彼はその生き方に満足していたことでしょう。
しかし、望んでいないとすれば、二重の意味で、この男には苦悩がありました。生き方そのものが人間らしくないという苦悩を負わされていること。その上に、望んでもいない生き方のゆえに、仲間から疎外され、人との交流を断ち切られてしまっている苦悩です。
聖書はこれを悪霊の仕業であると描きます。それは、不条理なものをなんでも悪霊のせいにする安易な思いつきでは決してありません。事実、神に敵対する霊的な勢力が、巧妙な手段で人間を神から引き離し、人間社会そのものを偏見と差別の渦巻く社会に変えているからです。
そうであればこそ、キリストの憐みに満ちた救いの手がここに差し伸べられます。
もはやこの男を支配することができないと悟った悪霊たちは、豚に乗り移ることをキリストに願い出ます。
現代に生きる私たちには、このやり取りや交渉は不可解すぎて意味が分かりません。しかし、ここにも思い巡らせるべき点があります。
悪霊たちは勝手に男に入りこみ、この男を支配し苦しめていたのですから、出ていくときも好き勝手にすればよさそうなものです。しかし、そうはできないことの中に、私たちの救いに対する希望があります。人間にとって得体のしれない勢力も、実はおびえるには及ばないということです。キリストの許しなくしては、悪霊には何かをする力がないからです。キリストの力の及ばないところで何かが起こっているのではありません。人間にとってコントロールできないと思われることであっても、キリストの御手が及ばないことは何一つ起こらないのです。
悪霊たちが乗り移った豚の大群2千頭が、崖から湖になだれ込んでおぼれ死んだと、聖書は事の顛末を記します。その情景を想像しただけでも背筋がぞっとします。しかし、その情景に心を奪われて見落としてはならないことがあります。
聖書は、たくさんの悪霊に取りつかれたこの男が、正気になって座っている様子を描いています。私たちが見るべき点は、たくさんの悪霊のことでもなければ、雪崩をうって湖でおぼれ死んだ豚のことでもありません。キリストによって解放されたこの人にこそ目を注ぐべきです。いえ、男に救いをもたらしたキリストに心を留めないとすれば、いったいこの出来事から何を学ぶのでしょう。
聖書は、この男が正気に戻ったばかりか、この男がキリストについていきたいという思いを抱いたことをも記しています。町の住民たちがキリストに出ていってほしいと願い出たのとは対照的です。
ここでも思い巡らせるべきことがあります。いったい、本当の自由を得ているのは、この男でしょうか。それとも町の住民でしょうか。