2018年1月4日(木) 罪人を招くために(マルコ2:13-17)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」という言葉で始まる福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭のこの言葉はとてもよく知られた言葉です。しかし、人は人の上に人を作りたがり、人の下に人を作りたがる、というのも真理であると思います。「忖度」という言葉が流行りましたが、まさに忖度する人間は、自分の上に人を作りたがる人間の心の表れです。逆に「差別」は人の下に人をつくりたがる人間の心の表れです。
平等であることを嫌う人間の心は、まさに罪深い人間の心の表れです。
きょう取り上げようとしている箇所には、人々の差別的な発言をきっかけに、イエス・キリストが語る大切な真理が語られています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 2章13節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
今、お読みした個所には、レビという名の男の人が、イエス・キリストの呼びかけに応じて、後に従っていった話が記されています。話の構成からいうと、最初の弟子であったペトロやアンデレをキリストが召し出したときの話によく似ています。
ペトロもアンデレも、自分たちの日常生活の中で、通りかかったイエス・キリストに見出されています。彼らの側が、キリストに目を留めて、弟子入りしたというわけではありませんでした。ことの始まるきっかけを与えたのはイエス・キリストご自身でした。
同じように、アルファイの子レビの場合もそうでした。レビにとっての日常は、収税所での働きでした。その日も、いつもと同じように、税を取り立てる仕事にいそしんでいるときでした。そばを通りかかったイエス・キリストから声をかけられました。
「わたしに従いなさい」
そして、レビも、ペトロやアンデレと同じように、その場を離れてキリストに従っていきました。
ここまでは、まさにペトロやアンデレの場合と同じような話の展開です。まさに、レビの話もまた、キリストによって召し出された一人の弟子の話です。
しかし、レビの場合は二つの点で違っていました。一つは、レビはイエス・キリストを自分の家に招いて食事を共にしたということです。食事の席に招いたのは、イエス・キリストお一人ではありません。他の弟子たちも一緒に招きました。そればかりか、徴税人仲間たちも招きました。いえ、罪人もそこに同席していました。
では、ペトロやアンデレはキリストを自宅に招かなかったのか、というと、そうだと断定することはできません。招いたかもしれませんし、招いたとしても不思議ではありません。
ただ、レビが自分の家に、こんなにも多くの人たちを招いたのには、理由があったからでしょう。少なくとも、キリストに対しては是非とも来ていただきたいと思ったことでしょうし、この喜びを独り占めにはできない、仲間たちと分かち合いたいという純粋な思いもあったでしょう。
マルコ福音書には「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」と、その時の様子が記されています。ここにはレビの喜びの大きさが表れているようにも感じられます。そして、その喜びを自分の喜びとして共有してくれる仲間たちがいたということも見て取れます。
もちろん、みんながみんな、この時の様子を好意的に見ていたわけではありません。それがもう一つの違いです。
そのもう一つの違いとは、純な気持ちでキリストを迎え入れたレビに対しては、これを快く思わない人たちがいたということです。ペトロやアンデレが同じように仲間たちを招いて、キリストと共に食事をしたとしても、誰からも非難の声は聞こえなかったでしょう。
では、なぜ、レビに対しては、冷ややかな反応を示す人がいたのでしょう。もちろん、直接に冷ややかな反応を受けたのは、レビ自身ではなく、イエス・キリストご自身でした。しかし、そこには明らかにレビに対する冷ややかな思いが背後にあります。
イエス・キリストを批判するファリサイ派の律法学者たちの目から見れば、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国に仕える徴税人は、明らかに罪人でした。彼らの目から見れば、徴税人も罪人も十把一絡げに「罪人」というレッテルを押された集団に属する「輩」だったのです。
ファリサイ派の律法学者たちの目から見れば、レビとその仲間たちが罪人である理由は、いくらでも挙げることができました。そうであれば、その者たちと食事を共にしているキリストは、律法学者たちの目には、救い主どころか罪人の頭領としか映らなかった事でしょう。
面白いことに、律法学者たちは、直接イエス・キリストを非難せずに、弟子たちに問いかけることで、間接的にキリストを非難しています。それは、弟子たちを動揺させる狙いがあったのかもしれません。
「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」
この問いかけに、すかさず答えたのは、弟子たちではなく、イエス・キリストご自身でした。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ここには、ご自分の使命がはっきりと表れています。それは、ご自分が罪人の救いのためにやってきた、という明確な使命感です。
そればかりではありません。ここには、自分を食事に招いたレビや、そこに集まったレビの仲間たちに対する肯定的な思いが表れています。律法学者たちが、罪人として退けてしまったこれらの人たちを、キリストは積極的に受け入れ、救おうとされておられるということです。
さらに、このキリストの言葉には、律法学者たちの高慢さに対する痛烈な批判も込められています。神のみ前に正しい人など一人もいないにもかかわらず、自分たちだけが救いに値すると思い込んでいる者たちへの批判です。
どんな病人も自覚がなければ医者には行きません。同様にイエスのもとへ救いを求めていく人は、罪の自覚のある人たちです。他人の罪ばかり批判して、自分の罪を自覚できない人は、なんと惨めなことでしょうか。
当たり前の事ですが、罪人であるからこそ救い主を必要としているのです。キリストはそのためにわたしたちのところへ来てくださったのです。