2017年12月28日(木) 眼差しの違い(マルコ2:1-12)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
同じ出来事に対する人々の関心は、それぞれ違うものがあります。たとえば、真夜中に救急車が近所に来たとします。ある人は、救急車を呼んだ人への関心から「こんな夜中に救急車を呼ばなければならないなんて可哀相」と思います。別な人は、とにかく現場を見たいという野次馬的な関心から、とりあえず家から飛び出してみる人もいます。また、別な人は、自分本位の思いから、「こんな夜中に救急車を呼ぶなんて近所迷惑だ」と腹を立てる人もいます。さらに別な人は、あらゆる可能性を分析して、交通事故だろうか、急病だろうか、あるいは何かの事件だろうか、と出来事そのものへの関心を示します。
どれもあり得る反応ですが、時として、こうした関心の違いが、事柄の本質を見失なわせてしまいます。きょうの個所に登場する人々の関心も、それぞれに違っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 2章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
今、お読みした個所には、その日起こった出来事が生き生きと描かれています。
イエス・キリストが、どれほどの影響力を持つお方であったのか、きょうの話の出だしからうかがい知ることができます。キリストが家にいるという噂は、あっという間に広まり、戸口のあたりまで大勢の人が集まってくるほどです。
ところが、そのキリストの人気とは対照的に、病気を患うひとりの男がいました。体が麻痺しているために、人の助けを借りなければ、自由に動くことができません。きっとこの病がこの男を襲った時には、多くの人が同情の思いから関心を寄せたことでしょう。しかし、治る見込みが立たない日々が続くうちに、人々の心から忘れ去られてしまいそうな存在です。
ただ、幸いなことに、この男の場合には、自分を心から心配し、手助けをしてくれる友人に恵まれていました。キリストのところまで自分を運んできてくれたのです。
しかし、せっかくキリストのもとへ友人を運んできたものの、あまりに大勢の人々がキリストのもとへと押しかけて来たのです。ですから、中に入ることはできません。そこで友人たちは、思いもよらない行動をとりました。
それは、屋根に病人を運び上げ、担架ごと病人をキリストのいる場所へと釣り下げようというものでした。
この様子の一部始終をご覧になっていたキリストは、「その人たちの信仰を見て」病を患う男におっしゃいます。
「子よ、あなたの罪は赦される」
イエス・キリストがご覧になったのは、彼らの奇抜な行動ではありませんでした。その行動を生み出した神への「信仰」をご覧になったのです。もし、病気の男も含めて、だれか一人が「きょうは諦めて帰ろう」と言い出せば、何も起こらない一日だったでしょう。信仰のあるところに、神は御業をなしてくださいます。多くの人は、「奇跡が起これば信じてもいい」といいますが、信仰がないところに、奇跡は起こりません。いえ、起こったとしても、それを奇跡とは認めないでしょう。
イエス・キリストの目は彼らの信仰へと向けられていました。それと同時に、この病の男に対しては、この男が最も必要としていたものを、キリストは与えてくださいました。
それは罪の赦しの宣言です。
普通に考えれば、病人が必要としていることは、病が癒されることです。確かに、今まで多くの人々の病をキリストは癒してこられました。しかし、この男にはそうではありませんでした。それはこの男がよほど罪深い男だったからでしょうか。そうではないでしょう。
ただ、この男は、病を得ることで、自分の罪について思いを巡らす機会が、健康な人よりもずっと多かったのかもしれません。「自分を連れてきた仲間の友人が、あんなに元気でいるのに、なぜ自分だけがこんな体になってしまったのだろう」「自分が病に冒されているのは自分の罪のせいだろうか」
それを肯定する思いと否定する思いとが、何度も交差して、病気であること以上に自分を苦しめていたに違いありません。
そう思うと、イエス・キリストがこの病の男の人に与えたのは、この人にとってもっとも大切な確信であったということができるでしょう。罪の赦しが与えられているということは、神のみ前に受け入れられているということに他なりません。この男は、「神から受け入れられている」というよき知らせをキリストの口からしっかり耳にすることができたのです。
そうです。病が、神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
けれども、残念なことに、この男が得た平安に疑いをさしはさむ人々がいました。それをただのまやかしとしか思わない人々です。
しかも、彼らは公然とイエスを非難したわけではありません。心の中で、つぶやいたのです。キリストの業の中にまことの神はいないとする人々です。イエス・キリストとともに神の国が正に到来しているということを見ようとしない人々です。
もっと言えば、彼らの関心は、病気で苦しむ人にさえ向けられてはいませんでした。
確かに、罪の赦しというのは、病気が癒されるのとは違って、たちどころに外面に現れるものではありません。そうであればこそ、神からいただく恵みは、信仰をもって受けとめるより他はありません。