2017年12月21日(木) 黙ってはいられない喜び(マルコ1:40-45)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 諦めていたことが適うほど嬉しいことがあったとき、それを隠しておくことはとても難しいことです。口には出さなくても顔に出てしまいます。そんなに嬉しいことなら、黙っている方が不自然なくらいです。今日取り上げようとしている箇所にも、隠してはおけないほどの喜びを体験した、一人の人物が登場します。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章40節〜45節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 きょうの福音書の記事に登場するのは、重い皮膚病を患う一人の人物です。聖書の中に出てくる重い皮膚病という病気が、今日の医学的な見地からどういう病名で診断されるのか、興味があるかもしれません。しかし、残念ながら一つの病気に特定できるようなものではありません。

 問題は、それがどういう医学的な病名をつけられるのか、ではなくて、その病に冒された人が、どんな生活を強いられ、どんな境遇のなかで日々を過ごさなければならなかったのかということです。

 旧約聖書のレビ記の13章から14章にかけて、この重い皮膚病のことについて、詳しく記されています。それによれば、まったく治る見込みのない病ではありませんでした。ただ、この病にかかった者は、不浄な者とされ、共同体から隔離した場所で暮らさなければなりませんでした。そのことがレビ記にはこう記されています。

 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない(レビ記13:45-46)

 このことは、聖書が命じる必要な措置であったとしても、患者にとっては社会生活を送る上でも、精神的な面でも痛手であったことは間違いありません。ただ、それよりももっと、この病を患う人を苦しめたのは、こういう病に冒されるのは本人に何らかの罪があるからに違いないという人々の冷たい視線です。周りの人間から心さえも閉ざされて、生きる意味さえも見失っていたことでしょう。

 この人がイエス・キリストのうわさをどこでどう聞きつけてきたのかは、わかりませんが、この人にとって、それは藁をもつかむ思いだったに違いありません。

 旧約聖書の規定には、この病が完全に治ったかどうかを判定するのは神に仕える祭司の勤めであるとあります。祭司は注意深く病状の回復を確かめた上で、病から清められたことを宣言しました。しかし、けっして祭司自身はこの病気の治療方法を知っていたわけではありませんし、癒しの力があったわけでもありません。ですから、この男は今まで病気から癒されるために誰をも頼りとすることはできなかったことでしょう。まして、どこに行くにも「わたしは汚れた者、わたしは汚れた者」と呼ばわらなければならないのですから、誰か人に近づくことさえできなかったことでしょう。

 そう考えると、イエス・キリストのもとにこの男が近づいていったということは、よほどのことと思わなければなりません。

 イエス・キリストのところに来てひざまずき、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったこの男の言葉は、魂の奥底からの叫びです。

 この男の願いに対して、驚くべきことに、イエスは手を差し伸べてその人に触れたとあります。今日ならば、医者が患者に手を触れるのは当たり前の光景かもしれません。しかし、その当時、この重い皮膚病にかかった人に触れることは、その汚れを受けると考えられていたために、まず誰もあえて触れる人などいませんでした。このイエス・キリストがなさった「触れる」というわずかな行為の中に、すでにこの人の価値を限りなくお認めになり、受け入れてくださっている主イエス・キリストの愛の姿を見て取ることができます。

 マルコによる福音書はここに至るまでの間に、悪霊に取りつかれた人の癒しの話、熱病を患う婦人を癒した話など、イエス・キリストが行った奇跡について記してきました。しかし、それらはただ単に不思議な奇跡物語なのではありません。そこに登場する一人一人に対する神の愛をそこに見て取るのでなければ、奇跡に意味がありません。イエス・キリストは数々の奇跡を通して神の国が到来していることをお示しになりました。しかし、神がわたしたちを支配するその法則は、愛に他なりません。

 「だれも自分を必要としていない」と絶望する愛が欠如した世界に、その人を心から愛し受け入れ、その人の存在の意義を見出してくださるお方がここにいらっしゃいます。

 インドで貧しい人々のために献身的に働き、ノーベル平和賞を受賞した有名なマザーテレサの言葉の中に、こういう言葉があります。

 「人間にとって一番ひどい病気は、誰からも必要とされないと感じることです」

 この言葉は、ほんとうに考えさせられる、重みのある言葉です。考えても見れば、どんなに重い病気でも、病気そのものがその人の人間としての存在の価値をなくしてしまうわけではありません。人間の存在の価値を、よくも悪くも評価してしているのは人間自身です。

 「あなたは価値のない人間だ」と決め付けてしまうこと、あるいは「わたしなんか生きている価値がない」と思い込んでしまうこと、そういう評価を人間は知らず知らずのうちに下してしまいます。

 特にある種の病気に感染したために、そのような差別的な扱いを受け、自分の存在の意義を見失うとしたら、それは本当に悲しいことです。かかった病気そのものよりも、もっと大きな苦しみを受けてしまいます。

 イエス・キリストの時代にも、病気そのものの苦しみよりも、その病気にかかってしまったために、自分が誰からも必要とされなくなってしまったという苦しみにあえいでいる人たちがいました。そういう人たちに接するイエス・キリストの姿の中に神の愛が現れています。

 その神の愛を見出したとき、もはや誰もその喜びを押しとどめることはできないのです。