2017年12月14日(木) そのためにわたしは出て来た(マルコ1:35-39)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 長く続いていることというのは、良いことだ、と普通は考えられています。というのは、長く続くだけの理由がそこにはあるからこそ、長く続けられてきた、と推測されるからです。

 しかし、どんなことでもそうですが、目的意識がはっきりしていなければ、良い結果を生み出すことはできません。イエス・キリストもしばしば自分は何のために遣わされてきたのか、はっきりとおっしゃっています。きょうの個所にも、はっきりとした目的意識が表明されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章35節〜39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 イエス・キリストが最初の弟子たちを呼び集めて、具体的な活動を開始されたのは、ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムという田舎町でした。

 イエス・キリストの活動の噂はたちまち広まり、町中の人たちがイエスのいた家の戸口にまで集まるほどになった、とマルコ福音書には記されていました。イエス・キリストのなさることは、もはやカファルナウムの誰もが知るところとなったということです。

 しかし、イエス・キリストの周りに大勢の人々が集まり、人気を博していることは、必ずしもいいことばかりとは限りません。中には、キリストの活動の意味を理解しないまま、ただ興味本位だけでイエスに近づこうとする人もいたことでしょう。あるいは、このような人気をねたましく思い、イエス・キリストに敵対する人々も出てくるということもあるでしょう。

 あるいはひょっとしたら、その場に居合わせた四人の弟子たちは、何だか自分たちまでも偉くなったかのような錯覚を起こしたかもしれません。

 このようなことを考えると、イエスのもとに大勢の人たちが集まってきたことを手放しで喜んでいるわけには行きません。

 そこで「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とマルコ福音書はイエス・キリストの姿を描いています。

 朝早い暗いうちに、人々がまだ一日の行動を起こす前に、イエス・キリストは一歩退いて、神の御心を尋ね求めたということです。

 多くの人に福音を述べ伝えること、悩みや苦しみから大勢の人を解き放つこと、このことはとても大切なことです。そういう意味では、カファルナウムの町中の人たちがイエスのもとへやってきたことは、願ってもないことです。一応の成功を収めたといえるでしょう。

 しかし、イエス・キリストはそのようなときにこそ、人里離れた場所で、神に向き合って祈っておられたのです。

 「朝早くまだ暗いうちに」というのは、ただ修行のために早起きしたというのではありません。そこには祈りの時としてふさわしい意味があります。人々が活動を開始して、救いを求めて自分の周りに集まり始めれば、もはや行動を起こさないわけには行きません。流れ作業のような一日が始まり、考える暇もなく一日が過ぎてしまいます。流れに押し流されて、しゃにむに走るだけでは神から委ねられた働きをしたことにはならないのです。

 きょう自分がなすべきことを、人の願いや評価ではなく、神と向き合い、神のみ前で祈りつつ思い巡らすこと、このことが大切です。

 英語にretreatという言葉があります。第一の意味は「退却」とか「後退」という意味です。第二の意味は「静養先」とか「潜伏場所」という意味です。そして、第三の意味は「黙想」とか「修養」の時をあらわします。キリスト教会でこのretreatという言葉が使われるときには、たいてい、この三番目の意味で使われます。

 退却するのと黙想するのとでは、ずいぶん意味が違うように感じられますが、ニュアンスはよくわかるような気がします。しゃにむに前進するのではなく、一歩引き下がって神と向かい合うこと、これが黙想です。

 retreatの原型は正に、このイエスの祈りの姿のうちにあるように思います。多くの人が集まるときにこそ、この退いて祈る姿勢が力を発揮します。

 さて、姿が見えなくなったイエス・キリストの跡を追って、弟子たちがやってきます。イエスを見つけた弟子たちは人里離れた場所で一人過ごすイエスに向かって「みんなが捜しています」と言いました。この言葉を口にした弟子たちの思いはいろいろだったと思います。

 「こんな寂しい所で、いったい何をなさっているのですか。みんながあなたを待っているんですよ」

 多少、非難めいた気持ちもあったかもしれません。

 あるいは、民衆たちの予想外の反応に、弟子たちもどうしたらよいのかわからず、とにもかくにも師であるイエス・キリストにこのことを知らせて、急いで対処してほしかったのかもしれません。

 「みんながあなたを捜しています」

 この言葉に応えるようにイエス・キリストは、こうおっしゃいました。

 「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」

 話の流れの中では、あたかも弟子たちの言葉に促されて、イエス・キリストが宣教の働きの新しい展開を決意したかのようにも受け取れなくはありません。しかし、イエス・キリストが他の町や村にまで宣教の業を広げることを確信し、決意したのは、弟子の一言によってではありません。むしろ、まだ明けやらぬ暗い中で、神と語り合ったからです。

 「そのためにわたしは出て来たのである」

 イエス・キリストはしっかりと言葉をつなぎました。宣教すること、神の国の福音を宣べ伝えること、神の国が間近に迫ってきていること、そのことを教えと御業で示すこと…そのことのためにわたしは出て来た、とキリストははっきりと宣言されます。

 イエス・キリストはご自分の使命を片時も曇らすことはありませんでした。祈りの中で、何のために自分が使わされているのかを確信し、いつもそこに立って行動しようとされていたのです。

 どんな立派な働きも、何のためにしているのか、はっきりとした目的が見えていなければむなしいものになってしまいます。何のために自分がここに遣わされているのか、一歩退いて神の声に耳を傾けること、そのことが大切なのです。