2017年12月7日(木) 癒しと平安を与えるイエス(マルコ1:29-34)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 健康への関心は、いつの時代、どの地域に行っても変わることがないように思います。健康でありたいという願いは、人類に共通した思いです。

 一時的に健康を損ねたというだけでも、一日も早く元気になりたいと思うのですから、長く病を患っている人に取っては、健康への思いはなおさらのことだと思います。

 今ほど医学の発達していなかったキリストの時代に生きていた人たちにとっては、病を得るということが、どれほど恐ろしいことであったことかは、容易に想像がつきます。というのも、病気の原因とメカニズムが解明されていなければ、防ぎようもなければ、治療の方針も定まらないからです。漠然とした姿の見えない敵と戦うことほど恐怖なことはありません。

 しかし、医学が発達した現代では、健康のことなど心配がなくなったかというと、決してそうではありません。一昔前までは、長生することは、それだけでおめでたいことでした。けれども、近年では、いわゆる「寿命」と「健康寿命」とが、区別して語られるようになりました。健康を損なったままでも、長く生きられる時代の不条理です。

 そういう意味で、健康の問題は、今でも人々の平安や安息と深く結びついています。きょう取り上げる箇所にも、病気の人々に関心を寄せるキリストの姿が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章29節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 先週は、安息日にユダヤ人の会堂へ行かれたキリストの話を学びました。イエス・キリストは会堂で教えをなし、悪霊に取りつかれた人を救われました。その場に居合わせた人々にとって、それは権威ある新しい教えと映りました。マルコ福音書は、その人々の驚きを印象深く描いています。

 きょうの場面は、同じ安息日の出来事として描かれています。安息日の礼拝が終わり、会堂を後にしたキリストの一行は、シモンとアンデレの家へと向かいます。弟子仲間であり、漁師仲間あったヤコブとヨハネも一緒です。

 その家では、シモンの義理の母親が熱を出して寝ています。おしゅうとめさんと聞くと、もう歳もだいぶいっていると勝手に想像してしまいますが、弟子たちの年齢を考えると、50歳にもいっていないかもしれません。ひょっとするとまだ40そこそこだったかもしれません。もっとも、今よりもずっと過酷な生活環境の当時でしたから、見た目は今の時代の同年齢の女性よりもずっと老けて見えたでしょう。

 家の人々はさっそく、シモンの義理の母親が熱で寝込んでいることをキリストに知らせます。そこには、二つの意図が考えられます。一つは、せっかく家に来ていただいたのに、あいにくの熱で、おもてなしをすることができない、ということを伝えるためです。

 もう一つは、イエス・キリストにこの熱を癒していただきたいという思いを伝えるためです。

 もし、病の癒しを願って知らせてきたのだとすれば、この願いが、どれほど切実なものであったのか、ということです。それは、この日が安息日であったということを思い出してみればすぐにわかります。というのはユダヤ人の掟によれば、よほどの緊急性がなければ、安息日に病気を癒すということは許されませんでした。そのことは、シモンの家の者たちも重々承知していたはずです。しかし、安息日であるにもかかわらず、あえて病気のことをイエスに伝えたとすれば、それはただの熱ではなかったからでしょう。

 イエス・キリストご自身も、切実なこの願いにすぐに応えてくださいました。病人の手を取り、病を癒してくださったのです。

 さて、この癒しの記事の中には二つの点で注目を引くものがあります。その一つは、その日ユダヤ人の会堂でなされた業と対を成しているという点です。あの場で悪霊から解放されたのは一人の男性でした。しかし、イエスの関心は男性にだけあったのではありませんでした。女性に対しても、イエス・キリストは関心を抱かれていたということです。神の救いの業は、男女の性別や、年齢の区別なく、あまねくすべての人に対して開かれているということを、この出来事は物語っています。その当時の時代的な背景を考えると、こんなにも早い時期に、女性のことが取り上げられるということに、イエス・キリストの特別な意図を感じることができます。

 イエス・キリストが伝える福音はどんな人に対しても開かれています。この世が十分な関心を払っていない忘れられた人たちにも、この世が切り捨ててしまった人々に対しても開かれているのです。

 もう一つ、この出来事が注目に値するのは、この日が安息日であったということです。あえてこの日にイエスが病気を癒されたというところに大きな意味があります。

 そもそも安息日は神が天地万物を創造し、その完成を祝福して業を休まれたことを覚える日です。それは完成されたことを祝う日なのですから、様々な病苦で苦しむ現実の世界の中では、真の安息日を祝うということは、ある意味で言えば矛盾したものを感じざるを得ません。

 しかし、イエス・キリストは現実の世界にメスを入れ、この苦しみに満ちた世界に本当の安息をもたらしてくださるお方です。安息日の本来の意味を回復してくださり、天地万物をお造りになった神様の御業の完成をなしてくださるお方です。

 さて、癒されたペトロの姑は、起き上がると「一同をもてなした」とあります。この一文は、イエスの癒しが完全であることを示すと同時に、もう一つの大切な点をわたしたちに示しています。

 「もてなす」と訳されている言葉は、「仕える」とか「奉仕する」という言葉です。後にこの言葉から教会の役職を示す「執事」という言葉が生まれました。ペトロの姑が一同をもてなしたのは、自分の病が癒されたことへの喜びであったに違いありません。その救いの喜びが他の人々への奉仕へと向かっているというところに感じ入るものがあります。

 イエス・キリストご自身が仕えられるためではなく、仕えるために来てくださったのと同じように、イエス・キリストによって救われた者もまた奉仕の業へと招かれています。救いの喜びと感謝とが、神と人とに仕える思いをいよいよ増し加えるようにと願います。