2017年10月26日(木) わたしよりも優れたお方(マルコ1:6-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新しい時代の幕開け、というものを、肌で感じ取るというのは、その時代に生きている人にとって、そう簡単ではないと思います。もちろん、戦争に負けて新しい憲法が発布された、というようなことであれば話は別です。
たとえば、江戸時代がやがて終わるかもしれないという時代の流れを、どれだけの人がそれを肌で感じていたでしょうか。
これは聖書を読むときにもそうだと思います。今でこそ、「旧約の民」とか「新約時代」という言い方をしますが、その境目の時代を生きていた人にとって、時代の潮目が変わるのをいち早く感じることができた人は、実際にはどれくらいいたのだろうかと思います。
今、マルコによる福音書の学びを始めたばかりですが、その冒頭に記されている出来事は、エポックメイキングな事件です。しかし、この福音書を読み進めると、この時代の流れに抵抗しあるいは無頓着な人々の何と多いことかと思わされます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章6節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる
マルコによる福音書は、新しい時代の主が登場するに先立って、道を備える先駆者として遣わされた洗礼者ヨハネの活動とその影響を簡単に記しました。そして、きょうの個所には、遣わされてきた先駆者ヨハネの出で立ちが初めて描写されます。
「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」
この描写は明らかに荒れ野で生活する者の姿でありますが、この時代からはるか昔にさかのぼる時代に、同じような出で立ちの預言者がいました。
その人物について列王記下の1章7節8節に、こう記されています。
アハズヤは、「お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」と彼らに尋ねた。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
預言者エリヤの特徴を、「毛衣を着て、腰には革帯を締めた人」、と描いています。マルコによる福音書が、洗礼者ヨハネの姿の中に、再来のエリヤを見ていたかどうかは、ここだけからは判断できません。まして、その時代の人々が洗礼者ヨハネをどう見ていたのか、ということは、たったこの一行の記述から判断することはできません。
しかし、少なくともマルコによる福音書は、再来のエリヤについてのイエス・キリストご自身の言葉を後にこう記しています。
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(マルコ9:12-13)
主イエス・キリストご自身、再来のエリヤが誰であるのかをはっきりとは述べていませんが、しかし、その人物が既に到来したということを告げています。その場合、キリストが指し示していた人物は、洗礼者ヨハネをおいて他にはいなかったでしょう。
ちなみにマタイによる福音書11章14節では、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と述べて、洗礼者ヨハネとエリヤとの関係を肯定しています。
そもそも、エリヤが世の終わりに先立って再来するという期待は、旧約聖書の最後の預言書、マラキ書にこう記されているからです。
「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」(マラキ3:23-24)
この預言自体は知られていたとしても、その成就を洗礼者ヨハネの中に見出すことができた人は、やはりそう多くはなかったことでしょう。
さて、このヨハネの働きは、キリストの到来に先立って、人々に真の悔い改めを迫り、その心を主に向けさせることでした。そのことは先週の学びで触れた通りです。
きょう取り上げた個所には、この洗礼者ヨハネが告げた重要なメッセージが書き記されています。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」
この時点で、既に洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受ける人々が大勢いました。そして、その中から洗礼者ヨハネの弟子として、ヨハネのあとに従う者たちも出てきます。そういう意味では、ヨハネの後について来る者たちは、ヨハネよりも大いなるものではありません。はたから見れば、ヨハネは時代の先端を行く預言者とみなされても不思議ではありません。
しかし、洗礼者ヨハネが伝えたメッセージは、それを真っ向から否定するものでした。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」
では、どう優れているのか、ヨハネのメッセージは続きます。
「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」
主人の履物のひもを解くのは、僕の仕事です。しかし、やがて来るべきお方と自分との関係を言い表すのに、「わたしは主人の履物のひもを解く僕にすぎない」とは言わずに、「自分にはその価値すらもない」とヨハネは、やがて来るべきお方の偉大さを、そう表現しています。
「主人と僕」という典型的な関係ですら表現しきれないほどの優れた人物を、洗礼者ヨハネは指し示しています。
さらに、ヨハネはやがて来るべきお方が、どのように優れているのかをこう述べます。
「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
神の霊を注ぐ力のあるお方。そのようなお方は、いまだかつて現れたことはありませんでした。洗礼者ヨハネが指し示す、優れたお方こそ、福音をもたらす救い主です。この福音書を学ぶ者にとっても、この来るべきお方にこそ目を注ぎ続ける必要があるのです。