2017年10月19日(木) 先駆者ヨハネ(マルコ1:2-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
何か歴史書を書くときに、どこからさかのぼって書くか、ということは、とても重要なことです。わたしが学生の頃習った政治思想史の先生は、明治初期の政治思想のことを本にしようとして、とうとう徳川時代の政治思想にさかのぼって本を書くことになったと聞かされました。
確かに、歴史というものは、前の時代とつながっていて、どんなに斬新なものであったとしても、それが生まれてくる理由が前の時代に潜んでいることがあります。
前回、このマルコによる福音書の書き出しの言葉は「初め」という言葉で始まるということをお話ししました。では、その場合の「初め」をマルコ福音書はどうとらえたのでしょうか。どこまでさかのぼると、「初め」にたどり着くことができるのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
旧約聖書の最初の書物『創世記』は、「はじめに」という言葉で書き起こし、神の天地創造の話からストーリーを展開させています。マルコ福音書が、この創世記の出だしをどの程度意識しながら、自分の文書を書き起こしたのかは定かではありません。
聖書以外の文献にもマルコの書き出しと類似した文書があります。それは、皇帝アウグストゥスの誕生に言及した碑文ですが、そこには「神の誕生は世界にとって福音の初め」と記されています。
「福音の初め」という言い方はそっくりです。マルコ福音書はローマ皇帝に対する言い方を意識しながら、まことの神の子であるイエス・キリストを世に紹介しようと考えたのかもしれません。
いずれにしても、マルコ福音書が「初め」をどこにさかのぼって考えたのかは、興味があります。特にこの後に続くほかの福音書と比べるときに、その違いは明らかです。
マタイによる福音書もルカによる福音書も、イエス・キリストの誕生にさかのぼって出来事を記そうとしました。特にマタイ福音書は、アブラハムからキリストの誕生に至るまでの系図を冒頭に持ってきています。言い換えれば、マタイ福音書の意識の中では、福音の初めを語るには、そこまでさかのぼるということでしょう。
ヨハネによる福音書は、さらにさかのぼって天地が創造されるよりも前のことから物語を書き起こしています。
それらの福音書と比べると、マルコ福音書は、「福音の初め」を直近の洗礼者ヨハネの活動から書き起こしています。
もっとも、その洗礼者ヨハネの活動を紹介するときに、マルコ福音書は、ヨハネを預言者イザヤの書をはじめとして、旧約聖書に記されたいくつかの神の約束の言葉と結び付けて洗礼者ヨハネのことを紹介しています。そういう意味では、マルコ福音書が理解する「福音の初め」は、洗礼者ヨハネの時代に忽然と始まったというわけではありません。
さかのぼれば、すでに旧約聖書の時代にその約束が神によって告げられていたということです。その時代から時代が進み、まさに時が満ちて、神の約束が果たされたということです。マルコ福音書の目は、ただ数十年前に起こった出来事の中に福音の初めを見て取ったのではなく、それが起こるよりも前の時代の中に、すでに福音の約束があったという理解です。
さて、マルコ福音書が、洗礼者ヨハネにその成就を見たとして引用しているのは、特にイザヤ書40章に記された預言の言葉です。一般的に、この預言はイスラエル民族のバビロン捕囚からの解放を約束した預言であると理解されています。しかし、マルコ福音書は、バビロンからの解放によってこの預言が完全に成就したとは理解しないで、イエス・キリストの到来に先立って遣わされた、洗礼者ヨハネの登場こそ、この預言の究極的な成就であるとみています。
もちろん、そういう歴史観が、マルコ福音書独自の歴史観であったということではないでしょう。おそらくは、キリストの時代からこの福音書が書かれるまでの30年ほどの間に、キリスト教会の間で定着した理解ではなかったかと思われます。もしそうでなければ、そのあとの時代に書かれたマタイやルカの福音書は、マルコとは異なる仕方で洗礼者ヨハネを紹介することができたはずです。
では、この洗礼者ヨハネのどこに、旧約聖書の預言の成就を見たのでしょうか。イザヤの描いた像と洗礼者ヨハネを結びつけるキーワードの一つは、「荒れ野」という言葉です。
新しい救いの時代は、荒れ野から始まります。それはある意味、かつてイスラエル民族が約束の地カナンに入る前に、荒れ野での旅を経験したことと重なる部分があります。
イザヤの預言の通り、洗礼者ヨハネは荒れ野で活動を開始します。そして、イザヤが預言する通り、「叫ぶ声」として洗礼者ヨハネは登場します。
その声は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と叫ぶ声でしたが、ヨハネは罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えることで、その「声」の役割を果たしました。やがてやって来る救い主を迎えるために、真摯な悔い改めこそが重要であるとヨハネは宣べ伝えます
さらに、イザヤの預言が暗示しているように、登場する声は、自分より後から来る者のために働く役割を果たすものです。洗礼者ヨハネの働きもまさにそうでした。ヨハネ自身がメシアなのではなく、メシアに先立って遣わされる先駆者の働きです。ヨハネ自身がそのことに徹しています。
マルコ福音書は、この洗礼者ヨハネの呼びかけに応じて、罪を告白し、洗礼を受ける民衆の姿を描きます。マルコ福音書が「福音の初め」というときに、それは、ただ預言の成就として、洗礼者ヨハネが登場し、新しい時代の始まりが告げられたということだけにあるのではありません。罪の告白と真摯な悔い改めのあるところにこそ、福音の初めがあるのです。