2017年10月12日(木) 神の子イエス・キリストの福音の初め(マルコ1:1)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今回から再び福音書を取り上げます。ヨハネによる福音書の学びが終わってから、2年ほど時が経ちます。その間、新約聖書の中のいくつかの手紙を取り上げてきましたので、ここで再び福音書に戻って学ぶことにいたしました。

 今回取り上げるのはマルコによる福音書です。新約聖書には四つの福音書がありますが、中でももっとも短い福音書がマルコによる福音書です。そして、聖書学者たちのほとんど一致した見解によれば、もっとも早く記された福音書であるとも言われています。そして、マタイによる福音書の記者も、ルカによる福音書の記者も、このマルコによる福音書を手がかりとして自分たちの福音書を書き記したと考えられています。

 では、マルコによる福音書が書かれる前には、キリスト教の文書は何もなかったのでしょうか。そんなことはありません。パウロの書いた手紙は、このマルコによる福音書よりも10年以上も前に書かれています。

 とは言っても、パウロの手紙が書かれたのは、ほとんど紀元50年代のことです。イエス・キリストが地上で活動をされたのはおよそ紀元30年前後ですから、それから20年間、キリスト教の文書がないというのは、少し不思議に感じられるかもしれません。

 いくつか考えられる理由があります。一つは、文書で記録を残すというのは、これは現代的な発想です。初代の教会は、口伝えで福音を伝えるという手段がありましたから、文書に残す必要はそれほど感じられなかったのかもしれません。いえ、残したいと思っても、羊皮紙やパピルス、これらは高価なものでした。そう簡単には書き残すことはできなかったでしょう。

 もう一つ考えられる理由は、終末の緊迫感ということがあったかもしれません。キリストの再臨が近いと緊迫感をもって信じているとすれば、文書に書き残すよりも、出ていって福音を宣教するという方に力を注ぐのは当然の成り行きでしょう。

 では、逆になぜ福音書が紀元60年代になって書かれるようになったのか、そこにも理由があります。

 一番大きな理由は、イエス・キリストと行動を共にした使徒たちが高齢に達したということが考えられます。イエス・キリストが洗礼を受けられた年齢がおよそ30歳であったとルカ福音書に記されていますから、その弟子たちが、何歳か年下であったとしても、60代に差しかかる頃です。当時の一般庶民が何歳ぐらいまで生きたかということは、いろいろな説がありますが、60歳になれば、自分の終わりがそう遠くはないという思いは、当然当時の人々にもあったでしょう。キリストを目撃したその人の証言はキリスト教会にとってとても重要です。あと何年かで直接聞けなくなる証言を文書として残したいという機運が高まるのは当然のことです。

 紀元60年代というのは、時代的にはローマ皇帝による迫害の時代が始まる頃です。特に皇帝ネロによる迫害は有名ですが、マルコ福音書が書かれたのは、まさにそういう時代でした。伝説では、ネロの迫害の時、使徒ペトロは逆さ十字架で生涯を閉じたと言われています。イエス・キリストを直接目撃したした人たちが突然いなくなるという危機感が、文書を残しておきたいという思いを募らせたとしても、少しも不思議ではありません。

 前置きが長くなってしまいましたが、早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章1節から4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

 きょうは、4節までを読みましたが、最初の1節だけを取り上げたいと思います。

 この福音書の書き出しは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まります。

 今でこそ、この文書を「福音書」と呼んでいますが、初めてこの文書が世に現れたとき、文書にタイトルがあったわけではありません。この書物を何と呼んだらよいのか、戸惑いもあったでしょう。

 最初の一行は、この書物のタイトルというわけではありませんが、この書物が何について書かれているのか、はっきりと示しています。

 「イエス」というのは人の名前ですから、この文書全体がイエスという人物に関わることであるのは、一目瞭然です。「イエス」という人名は、ユダヤ人たちの間ではごく普通の名前ですが、「主は救い」という意味が込められていますので、普通の名前とは言っても、これからこの文書の中心となる人物に当てはめて考えるならば、決してありふれた意味の名前ではありません。

 ただ、それよりももっと大切なことは、このイエスという名前の人物に、「神の子」「キリスト」という二つの重要な言葉が添えられているということです。

 今の時代のように、キリスト教が世界宗教となっている現代では、「神の子イエス・キリスト」という言葉自体が一つの固有名詞のように扱われてしまいそうです。しかし、この書物が書かれた時代には、まだ「イエスは神の子」「イエスはキリスト」という言い方が定着していない時代でした。もちろんキリスト教会の中では定着していたでしょうけれども、世の中の人みんなが、キリスト教信仰はそういうものだ、ということを知っていたわけではない時代でした。そういう時代に「神の子イエス・キリスト」という書き出しで書物を書き始めることは、衝撃的なことであったと思われます。そして、先ほども言いましたが、迫害の始まる時代に、そう告白する書物のもつインパクトは大きかったに違いありません。

 ちなみに、学びが進む中で詳しく取り上げるつもりですが、「イエスはキリスト」という告白は、この福音書のほぼ真ん中あたりで、弟子のひとりであるペトロが「あなたはキリスト(メシア)です」と口にします(マルコ8:19)。同じように「イエスは神の子」という告白は、この福音書の終わりあたりで、ローマの百人隊長の口を通して「ほんとうに、この人は神の子だった」と告げられます(マルコ15:39)。

 このことからも、「神の子」「キリスト」という、この二つのキーワードがこの書物を読み進めていくうえで大切な役割を果たしていることがわかります。

 さて、この書物を原文のギリシア語で読むと、最初に置かれている言葉は「初め」という言葉です。当たり前ですが、物語を読むのに、途中から読もうと思う人はいないでしょう。誰でも最初からのことを知りたいものです。そういう意味では「初め」という書き出しは読み手の興味をそそります。

 そして、何の初めかというと「福音の初め」です。「福音」とは「良い知らせ」という意味です。それも、神の子イエス・キリストに関わる良い知らせです。それが、この書物を読む読者に知ってほしいと、マルコが願っている事柄です。ぜひ、これからの何か月の学びを通して、神の子イエス・キリストに関わる良い知らせを聴き取っていきたいと願います。