2017年9月28日(木) 自己吟味の要請(2コリント13:5-10)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会の礼拝では聖餐式と呼ばれる儀式が行われることがあります。主イエス・キリストが弟子たちと最後の晩餐を持たれたときに定められたものです。その聖餐式について記したパウロの手紙には、この聖餐式にあずかろうとする者は、「自分をよく確かめたうえで」この聖餐式にあずかるようにと求められています。
信仰を持ち始めた頃のわたしは、この「自分をよく確かめたうえで」とか「自分を吟味したうえで」ということが、何を求めているのかよくわかりませんでした。聖餐式にあずかってはいけない理由に、一つでも思い当たるようなことがあれば、辞退するように求めているのだろうかと、この言葉を聞くたびに心に重くのしかかっていました。
あるとき、お世話になった牧師から、この言葉の意味を教えられて、ホッとしたのを思い出します。それは、聖餐式に相応しくない自分の罪を数え上げるということよりも、ほんとうは神の前にふさわしくない自分が、今もなおキリストの十字架の救いによって救われている、そういう信仰を持ち続けているかどうか、そのことをよく確かめることが、ここでいう吟味の意味なのだ、ということでした。
なるほど、確かに、その信仰を失っているのであれば、聖餐式に形だけあずかったとしても意味はありません。キリストに対する信仰の吟味こそ大切なのだ、と合点がいきました。
さて、今日の箇所でも、「自分を反省し、自分を吟味しなさい」という言葉が出てきます。その言葉はとても厳しい言葉ですが、そこにはどんな思いが込められているのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 13章5節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが…。わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
コリントの信徒への第二の手紙の学びも、あと一回で終わりとなります。この手紙が書かれた目的の一番は、コリントの教会が、健全に成長することができるように、今、直面している問題が速やかに解決されることです。そのために、パウロは三度目のコリント訪問を計画しています。そして、その訪問が無駄にならないように、あらかじめこの手紙を書き送っています。
今日取り上げた個所には、この三度目の訪問が失敗に終わることがないように、言葉を尽くして、パウロの期待を記しています。
パウロはこの手紙を書き終えようとするにあたり、まず、信仰の吟味を促しています。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、吟味をしなさい。」
この言葉は、一見威圧的に聞こえなくもありません。話の流れからいっても、そう感じてしまうでしょう。
先週取り上げた個所では、「今度そちらに行ったら、容赦しません」という断固とした決意の表明が記されていました。容赦しないその理由は、コリントの教会のある者たちが、パウロが神から遣わされた使徒であることに疑いをさしはさみ、「キリストがパウロによって語っておられる証拠を求めているから」でした。
その流れの中で「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」という言葉を読むと、「そう言っているお前たちの方こそ、信仰は大丈夫なのか」と言っているように聞こえてしまいます。しかし、それは大きな誤解です。
パウロはコリントの教会の信徒たちの信仰を疑ったり否定しているのでは決してありません。そのことは、続く文章から明らかです。
「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが…。」
パウロは、コリントの教会の信徒たちが、確かに信仰の内を歩んでいることを確信しています。そうであればこそ、そのパウロの確信とコリントの教会の信徒たちの自己吟味の結果が同じであることを期待しています。吟味の結果失格者であるということは、予想外のこととしてこの手紙を書いています。
パウロは、コリントの教会に集う信仰者たちのうちにキリストがおられることを確信していますし、そのような自己意識に生きてほしいと期待しています。
しかし、パウロの期待は、そのことだけにとどまるものではありません。コリント教会の信徒たちのうちにキリストが確かにおられるということを教会員たちが正しく知るならば、そのことがパウロたちに対する理解にもつながってくるということです。
自分はキリストとつながっているけれども、同じイエス・キリストを信じると言っているあの人は違うなどと、安易に批判できないものです。少なくとも、自分を吟味したのと同じ吟味の規準で判断するのでなければ、他人を裁くことなどできません。
コリントの教会の人たちが自分自身の信仰に対して正しく吟味するならば、かならず、パウロたちに対する見方も変わってくるはずです。まして、パウロはコリント教会の伝道に深くかかわってきた人です。そのパウロを否定することは、自分たちの信仰を否定することにもつながってしまいます。
しかし、パウロにとっては、自分たちに対する評価は第一の目的ではありません。何よりもパウロが願っていることは、裁きを断行して教会を正常な状態に戻すことではなく、罪の自覚と悔い改めの中で、信仰に立ち返り、信仰に根差した健全な成長を遂げることです。このことはキリストを信じるすべての人々にとって大切なことです。