2017年8月31日(木) 不思議な体験と弱さの誇り(2コリント12:1-10)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
よく耳にする言葉に、「キリスト教は弱い人が信じるものだ」というのがあります。それは半分当たっていて、半分違っていると思います。誤りの一つは、キリスト教とは弱い人が信じるものではなく、人間とは弱くて儚いものだということを知っていて、しかも、自分自身がその人間の一人であることを受け入れている人が信じることのできるものだ、ということです。
言い換えれば、人間の弱さや不完全さを知らない人にとって、とりわけ、自分は弱い人間ではないと思う人にとっては、キリスト教を理解するのはとても難しいということです。
もう一つの誤りは、キリスト教の世界では、「弱い者」と「強い者」はしばしば逆転的だということです。たとえば、キリスト教を徹底的に弾圧した徳川幕府の力は強大でした。しかし、その力をもってしても、キリスト教を根絶することはできませんでした。一方、徳川幕府はといえば、260年あまりで消えてしまいました。神の偉大さを信じる者にとっては、人間の強さにも限界があることは自明の事柄です。そうであれば、弱いということについて、それをマイナスの要因とは思わなくなるということです。むしろ、神の力にこそ価値を見出す者とされていきます。
きょうの個所にも、パウロの弱さについての話が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは3度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
前回、パウロの人間的な誇りについての話を見てきました。もちろん、パウロにとって、そのような人間的な誇りを自慢することは本意ではありません。敵対者である偽使徒によって惑わされているコリント教会の人たちの目を覚まさせるために、あえて自分の誇りを並べたにすぎません。
しかし、それでさえも、ただの自慢話ではありませんでした。前回の個所には、ユダヤ人としての民族的な誇りから、キリストに仕える使徒としての誇りへと話題を発展させながら、結局は、使徒としての働きに伴う困難の話や、教会に集う人たちへの配慮をパウロは語りました。それらは、明らかに偽使徒たちに欠けていた点であったと思われます。
そしてついには、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と語りだし、逮捕の手を逃れて、ダマスコの街を脱出した事件について、それを自分の弱さとして紹介します。
ところが、12章に入って、再び、パウロは自分の神秘的な体験について語りだします。この個所は、あたかも第三者が経験したことのように語ってはいますが、実際にはパウロ自身の体験だと考えられています。
その体験とは、14年前に、第三の天にまで引き上げられたというものです。第三の天とは神がおられる最高の天といってもよいでしょう。パウロは「楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」。
「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言いながら、ふたたび、誰もが体験しないような神秘的な体験を口にするのは、矛盾しているように感じるかもしれません。しかし、パウロが一番言いたいことは、その神秘的な体験そのものではありません。そもそも、それを口にしても、自分のことを過大評価されるのを恐れて、あたかも、他の人の体験としてそれを紹介するにすぎません。
むしろパウロにとって大きなことは、そのような体験を神からいただきながら、なお、自分の身に一つのとげが与えられているという現実です。パウロはそのとげを、「思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」だと呼んでいます。具体的にそのとげが何であるのかは、記されていませんが、パウロにとって具体的にそれがなんであるかを説明することは重要なことではありませんでした。パウロにとって、もっとも大切と思われたことは、神秘的な体験をしたことでもなく、また、そのような神秘的な体験にもかかわらず与えられているとげが具体的に何であるかという説明でもありません。それらの出来事からパウロが学んだ最も大切なことは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主からの言葉でした。このことに、パウロは祈りを通して確信を持ちました。
自分には学識があるとか、自分には特別な体験があるとか、そういう事柄は、神の力の前にはほとんど意味をもちません。逆に、自分にとってハンディとなることも、神の力の前では重大な障害とはなりえないということです。ただただ、神の力が自分を通して豊かに働くことを願うこと、このことこそ、大切なのだとパウロは確信しました。
クリスチャンの強さとはこの点にあるといってよいでしょう。神の偉大な力が、この弱い器さえも用いて、豊かに働いてくださるのですから、何も恐れることはありません。今いただいている恵みの中で、神はもっとも力強く、もっとも美しく働いてくださいます。そのことに気がつくとき、自分の弱ささえも誇れるように変えられていくのです。