2017年8月3日(木) 誇る者は主を誇れ(2コリント10:12-18)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自慢話の一つや二つ、誰にでもあるかもしれません。他愛のない自慢話なら、笑ってその自慢話を聞くことができます。ほんとうにその人のお手柄であれば、これもまたその自慢話を喜んで聞くことができます。

 もっとも、神の摂理を信じるクリスチャンにとっては、全くの人間の手柄と呼ばれるものがないことも知っていますので、自慢話にも限度があることをわきまえています。もちろん、そのことは人間の功労を評価しないというわけではありません。ただ、究極的にはすべてが神によって整えられているという思いから、自慢話をするにも自分を過大評価しないようにと気をつけます。

 ただ、自慢話というのは、たいていの場合、疎まれるものです。その理由は、一つには、人間の妬み深さからくるものがあります。他人の成功を素直に喜べないというのは人間の罪深い性格から、なかなか避けることができません。

 もう一つの理由は、自慢話には尾ひれがついたり、主観的に自分を過大に見てしまうために、客観性に乏しいからです。他人が評価しているというのならいざ知らず、自己評価ほどあてにならないものはありません。

 しかし、それにもかかわらず、過大な自己評価を繰り返してしまうのが人間です。パウロは過大な自己評価をする敵対者たちを痛烈に批判しています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 10章12節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 今、お読みした個所から、パウロが念頭に置いている敵対者の姿が、おぼろげに見えてきます。パウロは彼らのことを「自己推薦する者たち」と呼んでいます。

 実は、この「自己推薦」あるいは「自分を推薦する」という表現は、もともとはパウロに敵対する人たちがパウロを非難するときに使っていた表現と思われます。たとえば、この手紙の3章1節には、「パウロがまたもや自己推薦している」という非難を想定したパウロの反論が記されています。同じように5章12節でも自分が自己推薦しているという非難を想定して、それを否定するパウロの言葉がつづられています。

 パウロに敵対する人たちは、パウロが語ることは自己推薦にすぎない、と非難していたのでしょう。

 しかし、この10章12節に登場する「自己推薦する者たち」という表現は、敵対者の言葉を逆手にとって、彼らこそが自己推薦をする者たちだ、とパウロは言います。

 確かに、この手紙の3章では、パウロが推薦状を持たないことから、自己推薦をしているに過ぎないと誹謗されていました。そこでパウロが主張したことは、コリント教会の信徒自身の存在がパウロにとっての推薦状そのものなのだということでした。

 では、敵対者たちは他人からの推薦を受けているので、自己推薦をする者たちではないといえるのでしょうか。パウロは、「彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合ってい」るにすぎないと、その愚かさを指摘します。仲間内の評価にすぎないのですから、それは、ほとんど客観性に乏しい自己推薦と同じということでしょう。

 パウロに敵対する者たちの姿は、自己推薦者というばかりではありません。限度を超えて誇るという虚しい姿です。それは、他人の成果を自分のしたことのように誇る愚かな姿です。具体的には、コリントでの伝道の成果をあたかも自分たちの功績のように誇っていたようです。

 実際には誰よりも先にコリントの地で福音を宣べ伝えたのは、パウロたちでした。もちろん、パウロは自分が一番乗りしたから偉いと自慢しているわけではありません。コリントの信徒への手紙一の中にも書いてあるように、与えられた役割の中で、自分の為すべき務めを果たしたにすぎません。

 パウロはアポロと自分の働きについて、こう記しています。

 「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(1コリント3:5-7)

 これこそ、神が割り当ててくださった範囲内で自分の役割を評価するパウロの姿勢です。「誇る者は主を誇れ。」とある通り、すべてを神の栄光に帰する生き方こそパウロの宣教の歩みでした。

 パウロはいかなる意味でも、自分の限度を超えて自分を誇ろうとはしませんでした。そればかりか、与えられた務めが忠実に果たされるようにと、いつもコリントの教会の人たちの信仰が成長し、コリントの教会の中でパウロたちの働きが定められた範囲内でますます増大することを願っていました。

 もちろん、パウロは自分の持ち場以外のことには関心を抱かない、という人ではありませんでした。

 コリントの地を越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになることを心から願っていましたし、実際、パウロにはスペインにまで足を運びたいという願いもありました。ただ、その思いは手柄を独占したいという願いからではありません。主から任される限りのことを精一杯果たし、同じように主から委ねられて務めを果たす人を、同労者として受け入れることです。福音の宣教はそのようにして広がっていくのです。