2017年7月27日(木) 見くびる者たちへの反論(2コリント10:7-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 昔はなかったもので、今、便利さと同時に災いをもたらすものがあります。それは、ネットを通してのコミュニケーションです。コミュニケーションそのものは、大昔からありましたが、コミュニケーションの媒体は時代とともに変遷し、より便利に、より遠くまでより早くという時代になってきました。手紙より便利なfaxが生まれ、そのうちEメールでのやり取りが日常になり、さらにはまるで会話をしているような感覚の文字のやり取りができるアプリケーションが登場するようになりました。

 文字でのやり取りは、相手の表情がわからないために、もともと誤解を生みやすいことがありました。ただ、手紙の時代には、誤解を与えないようにじっくりと文章を練ることが出来ました。インターネット通信の文字による会話は、そんなに文章を考えていたのでは、話についていけなくなってしまいます。それで、短い表現、短い言葉が生まれ、慣れない相手には真意が伝わらないためにトラブルになってしまうこともあります。そういう意味で、現代社会は便利な時代であると同時に不便な時代でもあります。

 もっとも、直接会って話すのとは違って、手紙の時代にも同じようなトラブルは起こるものでした。文字という媒体を通してコミュニケーションを図ろうとするからトラブルが起こってしまうのか、それとも、もともとトラブルを起こしそうな状況の中で、文字に頼ろうとするので余計に問題が複雑になってしまうということもあるのかもしれません。今学んでいるコリントの信徒への手紙では、パウロ自身が手紙のやり取りで大変な苦労を経験した人でした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 10章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。

 今取り上げた個所だけを読むと、何が具体的な問題なのか、その全体像を描くことはできませんが、少なくともパウロとこの手紙の受取人との間に、何某かの問題が生じていることはすぐに読み取ることができると思います。

 パウロが、この手紙の受取人であるコリントの教会の人々に対してあげている問題点は四つほどあります。おそらく、その問題はコリントの教会の信徒全員ではなく、その中のある人たちのことだと思われます。

 その一つは、パウロをうわべだけで判断しているという誤りです。具体的には、パウロが使徒の権威を持った者であるということを認めようとしない誤りですが、その判断をパウロのうわべから下しているという誤りです。

 当然のことですが、パウロが使徒としての権威をもっているかいないかは、その語る言葉のメッセージによってこそ判断されるべきことです。確かに、パウロに逆らう人々は、パウロの書く手紙の言葉には、重々しさや力強さを感じていました。しかし、実際に会って見て抱くパウロの印象の方を優先させ、「弱々しい人で、話もつまらない」と言って、使徒としての権威に敬意を払おうとしませんでした。

 もう少し後の11章13節以下に出てきますが、サタンでさえ光の天使を装うのですから、偽使徒がキリストの使徒を装うことがあっても不思議ではありません。しかし、コリントの教会のある信徒たちは、パウロと偽使徒との区別を、あてにならないうわべで判断しようとしているのです。

 第二の誤りは、自分はキリストのものだと自認しながら、パウロが同じキリストのものであることを否定している点です。一体どのような判断基準でパウロを否定したのか、パウロ自身が反論しているように、もう一度考えてみるべきことです。

 もちろん、この区別は必要な区別ですが、同じ福音にあずかり、同じ信仰を持っている者同士が、相手を非難して、「あなたはキリストのものではない」と口にすることは、よほど明確な理由がなければ、簡単にすべきことではありません。自分には甘く、他人には厳しく判断して、そう結論づけたのだとすれば、もってのほかです。主にある兄弟を判断するとき、自分に適用する基準と相手に適用する基準が違っていたのではお話になりません。冷静になって見つめるべきことです。

 第三の誤りは、使徒の権威そのものに対する誤解です。パウロに敵対する者たちは、パウロが使徒の権威を笠に着て、威圧的な態度で自分たちに指図していると誤解しているようです。パウロは使徒の権威を「打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威」と呼んでいます。

 このことは教会の中で立てられている指導者全般について言えることです。指導者自身が与えられた権威について誤解してはならないことは勿論のこと、指導を受ける者たちにとっても、その権威の性質について十分な理解が必要です。

 使徒に与えられた権威は、破壊的ではありません。造り上げる権威、建徳的な権威です。そのことを誤解してはなりません。

 最後の誤りは、パウロという人を知ろうとしない誤りです。

 パウロに敵対する人々は、パウロのことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言っていたようです。

 この個所から、パウロについて様々な想像が膨らむかもしれません。書くのは上手だか話下手な人であったとか、見るからに病弱そうであったとか、挙げればきりがありません。これはあくまでも敵対する者たちの印象です。

 建徳的で謙遜の限りを尽くしたパウロの態度を、弱腰だとか、弱々しいと思い込んだり、言葉を慎重に選びながら話すパウロを、口下手で話がつまらないと言っているだけかもしれません。

 いずれにしても、パウロがどんな人であれ、敵対者たちが下した評価には、パウロを知ろうという思いがかけらもありません。

 パウロは「離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません」と言い切ります。それは、ただ単に彼らが判断した手紙の重々しさと、会ってみての弱々しさとのどちらがほんとうの自分かということではありません。変わらないのは、主が授けてくださった使徒の権威が、あなたがたを造り上げるためという自覚のもとで、どんなときにも一貫して行動をとっているということです。