2017年7月20日(木) パウロを見くびる者たちへ(2コリント10:1-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会について一般的に描かれるイメージは、清い場所、聖なる所ということではないかと思います。そして、そこに集う人たちに求められることも、同じように清さや正しさではないでしょうか。そういうイメージでクリスチャンが見られているということは、大変光栄なことです。しかし、その反面、現実の人間の罪深さを思うと、クリスチャンに対する期待が大きいだけに、失望させることも多いのではないかと思います。
初めて行った教会につまずく、初めて出会ったクリスチャンに失望する、こんなことは耳にしたくはありませんが、現実に起こりえることです。
今学んでいるコリントにある教会は、問題の多い教会でした。多かれ少なかれ、教会にはそういう側面があります、と言い切ってしまうのは、悲しいですが、しかし、そうかといって、表面上取り繕ったところで、そんな嘘はすぐにばれてしまいます。
大切なことは、神の前に言い訳をしたり、取り繕ったりすることではありません。むしろ、ありのままの現実を認め、真摯に悔い改めることこそ、大切なことです。
きょう、これから取り上げようとしている箇所は、今まで学んできた、エルサレム教会のための募金の訴えとは、まるで違った口調の手紙です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 10章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
今学んでいるコリントの信徒への第二の手紙のきょうの個所は、まるで今までとは全く別の手紙が紛れ込んだか、はたまた何か事情が急変して、今まで書いてきたことを中断してしまったような印象を受けるくらい、激しい口調のパウロが登場します。
きょうの個所よりもう少しだけ読み進めると、明らかにパウロのことを悪しざまに思う人たちがいたようです。10章10節で、パウロはその人たちの言葉を再現しています。
「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」
この言葉は、ただ単に、手紙を通して想像していたパウロと、実際に会ってみたパウロとでは、全然イメージが違った、という程度の話ではありません。人間の想像ほどあてにならないものはありませんから、描いていたイメージと実像が違うなどという話は、よくあることです。
そうではなく、この言葉には、明らかにパウロに対する軽蔑の念が込められています。パウロの語ることを聴こうとしない心が、パウロの話をつまらないものだと決めつけ、パウロの語る口調や態度までも貧弱にしか映らないようにしているといっても言い過ぎではありません。
そういうパウロに対する悪い印象をもっている人たちが、コリントの教会の中にどれくらいの勢力を占めていたのかはわかりません。それがたとえ一部の少数派であったとしても、自分に耳を貸さず、敬意を払ってもくれない人たちを相手に何かを語るということはとてもしんどいことです。
10章の書き出しを、パウロはこう書きます。
「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが」
この言葉は、パウロを見くびる者たちへの皮肉な言葉のようにも聞こえますが、相手の注意をひきつけるために、機知にとんだ書き出しです。相手の言葉を繰り返して、あえて否定も肯定もしません。実際、パウロにとって人間に自分がどう評価されるかは、本質的な問題ではありません。こんな挑発的な言葉にのって、けんか腰になれば、それこそ問題の解決どころか、火に油を注ぐようなものです。
パウロは続けて、こう記します。
「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。」
本来なら、「願う」というよりは「命じる」とでも書いてよいくらいでしょう。使徒としての権威を与えられたパウロですから、もっと強い口調で手紙を書くこともできたはずです。しかし、手紙を受け取る、問題の相手にとっては、強い口調ほど逆効果です。「ほらまた、パウロの重々しい口調が始まった」と揶揄されるだけです。
パウロは謙遜の限りを尽くして、広い心でこの手紙の読者にお願いしています。
では、パウロはコリントの教会の人々に対して何を期待し、何を願っているのでしょうか。
それは「強硬な態度をとらずに済むこと」です。パウロを見くびり、揶揄する者たちが、パウロに対して抱いている誤解は、パウロが肉に従って歩んでいる、という誤った見解です。自分が人前で弱々しく見られるとか、話がつまらないと思われることは本質的なことではありません。しかし、パウロは肉に従って歩んでいるという誤解は、パウロが宣べ伝える福音と相いれない内容です。そんな根も葉もない噂が独り歩きすれば、もはやパウロの宣教する福音に耳を傾ける者がいなくなってしまいます。この点ではパウロは敵対者に譲ることはできません。徹底的に論駁するつもりです。
けれども、パウロは議論のための議論を好まない人です。論駁する前に相手が非を認めて悔い改めてさえくれれば、それ以上のことは何も望んではいません。
ここで、パウロのことを「肉に従って歩んでいる」と非難する人たちは、いったいパウロの何を指してそう思っているのでしょうか。ここには具体的には記されていませんが、12章16節以下にはこんなことが記されています。
「わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。」
使徒言行録18章3節以下によれば、パウロはコリントで伝道をしたとき、テントを造りながら自分の生活を支え、伝道の業に励みました。コリントの教会の人々の負担にならないように配慮したというのが現実です。しかし、パウロを非難する人たちは、まるでパウロは詐欺師のようにコリントの人たちからだまし取っていると誤解しているのです。そういう誤解が、パウロは肉に従って歩んでいるという非難の言葉となって表れているのでしょう。
パウロは人間としての肉体の弱さをもって生きていることは否定しませんが、人間の欲に従って神の言葉を売り物にすることなど決してしない人です(2コリント2:17)。むしろ、肉体の弱さにも関わらず、神の力に依り頼んで、大胆に真理を宣べ伝えてきました。そして、この手紙を書いている今も、偽りを打ち破ることができる神の力を確信しています。
人間の力ではなく、神の力こそ、偽りを打ち砕く力です。その力に信頼するときに、キリストの優しさと心の広さとをもって、敵対者に向かうことができるのです。