2017年7月6日(木) 自発的な献金と先行する神の恵み(2コリント9:6-10)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会の礼拝に初めて通い始めたとき、戸惑うことの一つに、献金のことがあると思います。たいていのプロテスタント教会では、礼拝の中で献金を捧げる袋が回ってきます。

 今でこそ、「初めての方や趣旨のわからない方は、次へ回してくださって結構です」などと案内する教会も増えてきましたので、それほど戸惑うことも少ないかと思います。しかし、やがて洗礼を受けてクリスチャンになると、礼拝の献金ばかりではなく、様々な献金を捧げる機会にめぐり合います。

 おそらくここまで聴いた方の中には、クリスチャンになるのも大変だなぁ、と思われる方もおられるかもしれません。あるいは、「所詮、宗教にはお金がかかる」と批判的に思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 そうであればこそ、クリスチャン生活にとって「献金」について正しく理解することはとても大切だと思います。今学んでいるこの手紙の中でも、エルサレムの教会を支えるための自由募金のことが取り上げられています。きょうの個所では「献金」とはどういうものであるのか、その基本が教えられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 9章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 今お読みしました個所には、献金とはどういうものであるのか、二つの大切なポイントが記されています。一つは、前半に記された種まきの話から、献金が自発的なものであることが強調されていました。もう一つの点は、神の恵みの豊かさにわたしたちの心を向けさせ、献金が神の恵みであることが説かれていました。

 それでは、まず、献金が自発的な性格であることについてみていきたいと思います。

 パウロは、ここで、種まきの話題を持ち出します。

 「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」

 一見、この言葉は、「献金とは先行投資のようなものだ」といっているように聞こえるかもしれません。「たくさん種をまけば、収穫も大きい。だから、献金をケチらずにいっぱいしなさい。」

 もし、その点をことさらに強調してしまうと、献金の趣旨がゆがめられてしまいます。献金は将来の報いを期待した投資ではないからです。このことは、後半部分でパウロが強調している「神の恵みが常に先行している」という認識とも相いれません。

 パウロがここで種まきのことを持ち出したのは、ただ単に、いっぱい種をまいた方が、たくさんの収穫を得ることができる、という法則から何かを導き出そうとしているのではありません。ここでパウロが語っていることは、種をまく人には、たくさんまく人もいれば、少ししかまかない人もいる、という事実です。そして、それに伴う結果として、収穫の増減もあるのですが、比較の対象は「多い」か「少ない」かではなく、「惜しんで」なのか、「惜しまず」なのか、という点です。

 そもそも種をまく農夫は、嫌々種まきをしているわけではありません。多くまく人も、少なくまく人も、各自の計画に従って、各自が決めた通り、種まきをするのであって、誰かから強制されて嫌々そうするわけではありません。もし、種をまくのが惜しいと思う農夫がいるとすれば、それは本当に愚かな農夫です。

 したがって、この種まきの話から導き出される結論は、「たくさん捧げなさい」ということではなく、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」というものです。特に、この勧めを担保するために述べる次の言葉は重要です。

 「喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」

 パウロは「たくさん与える人を神は愛してくださる」とは言っていません。「たくさん与える人」ではなく「喜んで与える人」を神は愛してくださるのです。

 では、どうしたら惜しむ気持ちからではなく喜んで捧げることができるようになるのでしょうか。パウロは大切な点にわたしたちの心を向けさせています。

 「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」

 ここで、パウロは、あふれるばかりの神の恵みについて言及していますが、この与えられた恵みから二つのことを引き出すことができます。

 一つは、献金は確かに自分の持っているお金を捧げることですが、しかし、それさえも神の恵みがもたらしたものであるという認識です。わたしたちが持っているものの中で神が与えたものではないものは、何一つとしてありません。逆に言えば、神は、ご自分が与えた以上のものを要求なさらないお方です。神からあふれるほどいただいたものの中から、その一部をわたしたちは捧げるのです。しかも、神の恵みは一回限りで尽きてしまうようなものではありません。

 もう一つの点は、実は慈善の業さえも、神の恵みから出てきているということです。キリスト教の献金の精神は、神の寵愛を得るために、まず捧げものをするのではありません。むしろ反対で、多くを与えられているからこそ慈善の業に励むことができるのです。

 神によって豊かな恵みをいただいていると、そう感じる心が、喜んで捧げる気持ちを促し、慈善の業へと人を押し出していきます

 結局のところ、神の恵みによって捧げることができる自分に気がついたとき、神から豊かに愛されている自分にも気がつくことができるのです。