2017年6月22日(木) 募金に携わる兄弟たち(2コリント8:16-24)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今の時代、金融システムの発達によって、実際に現金そのものが物理的に移動しなくても、相手の口座に資金を電子的に瞬時に送金することができる時代です。国をまたいで支援金を送ったり受けたりすることも、とても簡単にできるようになりました。そのおかげで、海外の教会を助けるために、折にかなった支援献金を遅れることなく届けることができるようになりました。
しかし、初代教会の時代はそうではありませんでした。誰かが実際に集まった献金を携えて、支援相手の教会を訪問しなければなりません。そういう務めを果たすことができる人は、だれからも信頼される人でなければなりません。ちょっとしたことが教会の躓きにもなりかねないからです。
きょう取り上げる箇所には、エルサレムの教会を支援するための募金に携わる人たちについての紹介が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 8章16節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。
エルサレム教会に対する募金のことは、この手紙の8章からずっと続いているテーマですが、このことはさかのぼれば、コリントの教会に宛てた最初の手紙でも触れられている事柄です。
前の手紙では、こう記していました。コリントの信徒への手紙一 16章1節以下です。
「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。」
この個所からわかる通り、コリントの教会では日曜日ごとにエルサレム教会のための募金が、各自によって用意されてきました。そして、集められたお金は承認を受けた人たちの手によってエルサレムに届けられるという計画でした。
第二の手紙を書いているこの時点までに、どれくらいの時間が経過したのか、はっきりとは言えませんが、第二コリントの9章2節には、「去年から準備ができている」と記されています。もっとも、「去年から」という言い方は、それを語っている時点がわからなければ、正確な期間を算定することはできません。ただ、文脈から推測すると、「去年から準備ができている」というのは、相当な期間の準備のという意味で語られています。もし、ふたを開けてみて、中身が伴わなければ、それを見たり聞いたりした人たちががっかりするほどの期間です。
いずれにしても、第一の手紙で予告しておいた通り、相当期間にわたって集めた募金を、いよいよエルサレムに携えていく時が近づいてきたようです。
そこで、この手紙では、どんな人たちをこの慈善事業のためにコリント教会に派遣しようとしているのか、パウロはその人物の紹介と推薦の言葉を記しています。
最初に名前が挙げられているのは、言わずと知れたテトスです。すでに、コリントの教会の人たちにとっては、顔なじみですから、改めて紹介するまでもありません。
ここでは、コリント教会への派遣について、テトスの熱意が紹介されています。その熱意は、パウロが抱いているものと同じであるという点がとくに強調されています。エルサレム教会のための募金活動が、それを訴え、携わる人ごとに、温度差があったり、違った関心がそこに伴ったのでは、混乱が起こるばかりです。テトスはそういう点で、まさにパウロと同じ熱心を神から与えられた人でした。パウロはそのようにテトスを紹介しています。
しかも、パウロによれば、テトスは派遣されたから行く、というような消極的な態度でこの慈善の業に携わるのではありません。コリントへ行くことを自発的に願っている人です。
さて、この慈善の業のためにコリントへ派遣される人物は、テトス一人ではありませんでした。パウロはもう一人の人物を紹介しています。この場合、もう一人の人物を派遣するのは、現実的な意味からも必要なことでした。現実的というのは、お金を扱うという働きの性質上、一人でそれを担うことの危険性をパウロは知っていたからです。
もちろん、パウロはテトスを信頼していなかったわけではありません。いえ、むしろ信頼していたからこそ、もし、不測の事態が起こった時に、テトスに嫌疑がかけられないように、もう一人を派遣することでその予防をしました。
その派遣される人物の名前は具体的に記されてはいません。肝心なのは、名前ではなく、その人がどういう人か、という信頼性の問題です。
パウロは、その人を「至るところの教会で評判の高い」「諸教会から任命された」人と紹介しています。パウロが自分の好みで名指ししたのではなく、複数の教会からの信任を得た人物です。そうすることで、公明正大さを担保しています。
パウロは二人で十分とはせず、さらにもう一人を派遣します。この人物についても、同様に具体的な名前は記しません。しかし、その熱心さについては「わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです」と記しています。この場合の「わたしたち」というのは、パウロと誰かほかの仲間という意味ではありません。23節で「彼らは諸教会の使者」と記しているとおり、教会が信任し、派遣する人物です。捧げられたお金が尊い献金であるからこそ、ここまで慎重を期したということです。
しかし、諸教会からの使者を三名も遣わす理由は、ただ単に公明正大にふるまう、というためだけではありませんでした。コリントでの慈善活動の熱心さが、それらの人々によって証しされるためでもあったのです。