2017年6月8日(木) マケドニア州の諸教会の慈善の模範(2コリント8:1-7)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会は初めから慈善活動に積極的でした。それはユダヤ教から受け継いだ伝統ということもありますが、イエス・キリストご自身が慈善について特別に教えられたということもあります。たとえば、マタイによる福音書の6章には、施しをする際の特別な心構えについて、キリストは教えておられます。

 またキリストは、この善き業を人知れず行うことを勧めるばかりか、何の見返りも期待できない敵に対してさえも行うようにと勧めています(ルカ6:32-35)。

 初代教会の様子を描いた使徒言行録の中にも、たとえばエルサレムの教会でやもめたちに日々の分配を行っていたことや(使徒6:1以下)、タビタという女性が慈善活動に熱心であった様子が記されています(使徒9:36以下)。またユダヤが飢饉に襲われた時には、アンティオキアの異邦人教会がユダヤに住む信徒たちにいち早く援助の品を送ったことが記されています(使徒11:29)

 さらには、異邦人諸教会の信徒たちが、エルサレムの困窮した信徒たちのために義援金を集めて届けるという慈善活動を計画していたことがパウロの書いた書簡から読み取ることができます(1コリント16:1以下)。もっともこれは単に慈善活動というよりは、それよりももっと大きな意義を持った活動でした。というのは、この慈善活動は民族を超えた助け合い、という意味でキリスト教会がどういう集団であるかということをよく物語っているからです。

 さて、今日取り上げようとしている箇所は、このエルサレムの教会のための募金と関わりのある個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 8章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

 今、お読みしました個所は、マケドニアにある諸教会の模範を紹介しながら、コリントの教会の信徒に対して、始められたエルサレム教会の信徒に対する慈善の業にいっそう励むようにと勧める箇所です。

 そこできょうは、このマケドニアにある諸教会が示した慈善の業の模範から学びたいと思います。

 パウロはここで、マケドニア州にある諸教会の模範を紹介するにあたって、彼らの働きを「与えられた神の恵み」と表現しています。

 パウロがここでマケドニア州の諸教会に起こったことを紹介しているのは、人間的な意味での良い模範を紹介し、コリントの教会の信徒たちに競争心や対抗心を起こさせようとしているわけでは決してありません。慈善活動を行う上で大切な第一歩は、わたしたちの持っているもので、神に由来しないものは何一つないという認識です。

 献金のお祈りのときにキリスト教会ではしばしばこんな祈りの言葉が聞かれます。

 「あなたからいただいたもののほんの一部ですが、お返しいたします」

 わたしが得たと思うものも、実は神からいただいた恵みにほかなりません。自分で得たものをこれだけ神に捧げたと誇りに思ったとしても、神の目から見れば、それは神が与えた数多くの恵みのほんの一部をお返ししたにすぎません。

 この認識が乏しければ、慈善の業が自慢の業に成り代わってしまうか、惜しむ気持ちが勝って、乏しい慈善の業になってしまうかのどちらかです。

 さて、マケドニア州にある諸教会というのは、具体的にはテサロニケの教会やフィリピの教会のことです。それらの教会の生い立ちは使徒言行録の16章と17章に記されていますが、いずれも住民たちからの激しい抵抗の中で生まれ育った教会でした。

 テサロニケの信徒たちに宛てたパウロの手紙の中に「あなたがたはひどい苦しみの中で……御言葉を受け入れた」(1テサロニケ1:6)と記されているとおりです。

 そのように「苦しみによる激しい試練の中で、……惜しまず施す豊かさとなった」ということの中に、パウロは人間の業ではなく神の恵みを見出しました。それはまた、試練の中で神の恵みを数え上げることができたマケドニア州の諸教会の信徒たちの信仰の姿勢があったからです。苦しみと困窮の中で、人はだんだんと神の恵みに目が閉ざされ、心が閉ざされていくものです。そうなるときに、捧げる思いも縮小していってしまいます。

 ところで、パウロはここで興味深い表現を使っています。

 「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」

 「満ち満ちた喜びがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」というのなら分かります。しかし、「極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」というのは、普通では考えにくい表現です。極度に貧しければ、施す力もないと考えてしまうからです。

 確かに、極度の貧しさにもかかわらず、惜しまず施す豊かさになったのですから、まさに神の恵みとパウロが言うのももっともな話です。

 しかし、おそらくここでパウロが言いたいことは、「極度の貧しさ」だけではなく、そこに神の恵みを見出し、喜びにあふれる時に、人は惜しまず施すことができるようになる、ということでしょう。神がともにいてくださって、わたしたちの必要を満たしてくださるという確信をもっているなら、これ以上の喜びはありません。そして、その喜びのもとでは、貧しささえも施す力と変えられるのです。

 このマケドニア州の諸教会の模範は、パウロが期待していた以上のものでした。結局のところ、マケドニア州の諸教会の信徒たちが示した模範は、神の恵みに対する応答であり、そのような恵みを豊かに与えてくださる神に対して、自分自身を捧げることにほかなりません。