2017年6月1日(木) 神の御心にそった悲しみ(2コリント7:5-16)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の中で起こったトラブルを、キリスト教信仰に立って解決するということは、そう簡単ではありません。その理由の一つは、当事者が同じ信仰の立場に立っていなければならないからです。このことは当たり前のことのように思えます。しかし、同じ聖書を読んでいるからといって、当事者の聖書理解が一致しているとは限りません。そういう意味では、しっかりとした信仰基準を持っている教会では、解決に向かってのスタートラインとゴールがはっきりしています。

 しかし、信仰基準がしっかりしていても、人間的な罪の弱さがなくなるわけではありません。そもそも、信仰基準がしっかりしていると、人間的な弱さもなくなるのであれば、教会内のトラブルそのものが起らないでしょう。しかし、現実はそうではありません。キリストによって罪の赦しを得たとはいえ、いきなり罪を犯さないほど清くなるわけではないからです。

 教会内のトラブル解決の難しさは、まさにこの点にあります。当事者がキリストの前に謙遜になって解決を求め、神の御心を尋ねるのでなければ、決して真の解決には至らないからです。そうであればこそ、真の解決を得た時にはこの上ない喜びが伴います。パウロとコリントの教会はそういう喜びを経験しました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 7章5節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

 パウロはこの手紙の2章12節以下で、トロアスの地でテトスに会えなかったために、その地での福音宣教を断念してまで、マケドニア州に向かったことを記しました。その時のパウロの心情は、きょうの個所にも記されているとおりでした。

 「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」(2コリント7:5)

 「外には戦い、内には恐れ」ということが、具体的に何を指すのかは、パウロはここであきらかにはしていませんが、少なからず、コリントの教会のことが心の内を占めていたことは明らかです。

 パウロは問題解決に向かって、コリント教会に宛てて大胆な手紙をしたため、その返事をトロアスの地でテトスを通して聴く予定でした。パウロ自身の表現によれば、その手紙は「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに」書いた手紙でした(2コリント2:4)。その手紙がコリント教会の信徒たちにどんな影響を与えることになったのか、パウロでなくともその結果を知りたいと思うのは当然です。まして、聞けると思っていたパウロにとっては、テトスに会えなかったことで、不安な思いが増大していったとしても不思議ではありません。この問題はパウロにとって決してどうでもよい問題ではなかったからです。それは、自分の名誉のためではなく、何よりもコリントの教会が神の御前に健全に成長してほしいと心からそう願っていたからです。

 しかし、この不安はテトスの到着によって一気に吹き払われました。もちろんそれは、テトス会えたという喜び以上に、テトスの口を通して、コリントの教会の反応を聞くことができたからでした。その反応は、パウロの思った以上に良い結果でした。

 何よりもコリントの教会の信徒たちは、心から罪を悔い改め、嘆き悲しみ、あのような手紙にもかかわらず、パウロを心から慕っていることが明らかになりました。

 パウロはコリントの信徒たちのこの悲しみを「神の心にかなった悲しみ」と表現して、そのような悲しみが、この世の空しい悲しみとは対照的に、積極的な意味を持つものであることを強調しています。それは、「取り消されることのない救いに通じる悔い改め」をもたらす意味のある悲しみです。

 教会の中で、何か問題が起こるということは、とても悲しいことです。それは、人間の罪の弱さと深くかかわっているからです。しかし、この悲しみは何か適当な方法でうやむやにしてしまうことはできません。自分自身の罪を認識し、悔い改めることがなければ、教会の中で起こった問題は決して解決することはありません。「残念な事件」の一言で問題をうやむやにしてしまうのではなく、心から悲しみ、心から悔い改めてこそ、この悲しみは癒しへと向います。

 しかし、その場合、罪を指摘する側も、指摘される側も、共に神の御前に立っていることを強く意識して、互いに重荷を担い合うことが大切です。パウロはガラテヤの信徒への手紙の6章で、互いに重荷を担い合う建徳的な柔和な姿勢を教えています。

 そして、何よりも、パウロはコリント教会に宛てた最初の手紙を書くときに、はっきりとコリント教会について神に抱いている希望をこう記しています。

 「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。」(1コリント1:8-9)

 パウロの思いは、世の終わりの時に、この教会の人々が神の御前に受け入れられることを心から望んでいます。この思いこそ、問題解決の根底を支えるわたしたちの希望です。